岸田國士

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)扉《ドア》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)女中|頭《がしら》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)にが/\しく
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菅沼るい
京野精一
土屋園子

ある海浜の寂れたホテル

四月のはじめ。晴れた静かな夕刻。
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舞台は、ホールを兼ねただゞつ広い日光室の一隅。――正面、硝子戸を距てて、やゝ遠く別棟の食堂が見え、左手は、庭の芝生へ降りる扉《ドア》。右手、いつぱいに奥へあがる階段――二階は客室である。その階段の降り口から、右へ、玄関へ続く薄暗い別のホール。

窓ぎはに、整然と、椅子テーブルが並び、テーブルには、鉢植の草花。室の中央に、ピンポン台。
階段の横に、大型の電気蓄音機。

一組の男女が、階段を降りて来る。
男は四十五六、女は二十八九、夫婦のやうにも見え、夫婦でないやうにも見える。男は頑丈な体格の、苦学生上りの役人とでも云ひたい風貌を備へ、女は、素人風をした商売女と云へば云へよう。二人は、一つのテーブルを夾んで腰をおろす。

室内は、外が暗くなるのにつれて暗くなる。やがて、食堂に燈火《あかり》がつく。
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女  あなた、このホテルへははじめてぢやないのね。
男  どうして……。
女  でも、あんまり勝手をよく知つてらつしやるから……。それに……。
男  海がどつちに見えるかぐらゐ、すぐわかるさ。
女  さうぢやないんですよ。あの、女中|頭《がしら》つていふのかしら、部屋を案内したお婆さんね。なんだか、馴れ馴れしい口の利《き》き方をしてたぢやありませんか。
男  あゝ、あゝいふ奴はよくゐるよ。いや、宿屋には限らない。客商売つていふもんは、そこが骨さ。初めて買物をした店で、毎度ありがたうつて云ふぢやないか。
女  …………。
男  二人とも知らないところへ行きたいといふから、わざわざこんなところへ出かけて来たんだ。それほど名案でもなかつた。時節|外《はづ》れの海岸は、まあ、こんなもんさ。
女  ほんとに、あなたつて、どうしてさう、方々をお歩きになつたの? あたしが行きたいと思ふところを、みんな知つてるつておつしやるから、いやになるわ。
男  お前は、また、どうして、さう、何処も彼処も知らないんだ?

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廊下で鈴を鳴らす音。食堂が開いた報《し》らせである。
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女  ちよつと、顔をなほして来ますわ。
男  部屋は十七号だよ。さ、鍵を持つてかなけれや……。

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女、階段を上つて行く。その間に、女中頭の菅沼るい(五十歳)白い毛糸のジャケツを、肥《ふと》つたからだに軽く羽織《はお》つて勿体らしく右手のホールから現はれる。男に会釈して、蓄音機の蓋を開け、レコードを択り、賑やかなタンゴをかける。そして、傍らの椅子に腰をおろし、眼をつぶつて聴き入る。
帳場の方から、「サン・ルームの電気!」といふマネーヂャアらしい声。
菅沼るいは、ハッとして、起ち上り、急いでスヰッチをひねる。こつちを見てゐる男と、視線が会ふ。
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るい  海がいゝ塩梅に静かでございます。
男  ホテルも静かだね。
るい  はい、でも、一昨日までは、お部屋が足りないくらゐでございました。
男  ほう、そんなこともあるかね。
るい  新婚旅行のお客様が、大層お見えになります。それと、お子様がたの学校休みで……。こちらは、御家庭向きになつてをりますもんですから……。
男  君は永くゐるの、このホテルに……?
るい  はい、まる四年になります。只今も、そのことを考へてをりましたんです。此処へ参りましたのが、私の、五十一の春……と申しますと、変でございますが、やはり、時節が今頃で、玄関前の桜が、ちらほらと咲きかけてをりました。
男  話が面白さうだね。僕は君の様子をみて、何か変つた生活をして来た人のやうに思つたのだが、すると、此処へ来るまでは、船にでも乗つてゐたの?
るい  どうしてそんなことがおわかりになります。
男  別にわかるわけぢやないが、その洋装の着こなしは、板についたところがある。どうして
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