も、亜米利加通ひの船でなけれや見られないよ。
るい  恐れ入りました。その船には、十六年乗つてをりました。あの時分のことは、一生忘れられません。

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女が、化粧をすまして、階段を降りて来る。
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男  食事にするかい。
女  えゝ、あなたは?
男  何時《いつ》でもいゝよ。

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男、起ち上つて、歩き出す。
二人の姿が消える。
入れ違ひに、若い男が二階から降りて来る。京野精一(二十一)である。
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るい  ピンポンのお相手をいたしませうか。
京野  今日は疲れた。また歩き過ぎたよ。(椅子にかける)
るい  そんなにお弱いやうには見えませんがねえ。でも、御無理を遊ばしちやいけませんよ。折角御養生にいらしてるんですから……。
京野  家庭教師みたいなことを云ふなよ。
るい  あら、ほんとに今日は、不思議な日ですわ。
京野  どうしてだい?
るい  みなさんで、あたくしの前身をおあてになるんですもの。
京野  君の前身なんか僕にや興味はないよ。家庭教師だつて、ホテルのハウス・キイパアだつて、大した変りはないだらう。
るい  お煙草でございますか。取つて参りませう。
京野  いゝよ、いゝよ。バアは開いてるだらうな。

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起つて、右手にはひる。
長い間。
やがて、また、二階から、三十八九の、和服に現代風の好みをみせた女が、気取つた足取りで降りて来る。土屋園子夫人である。
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るい  御退屈でございませう、奥さま。
夫人  いゝのよ。どうせ、退屈をしに来たんですもの。(腰をおろす)
るい  お話相手もなくつて、ほんとに……。
夫人  さう云へば、今の書生さん、時々話をしかけたさうにするんだけど、あれ、どういふ人?
るい  あら、まだ御存じないんでございますか。あの方、京野子爵の若様でいらつしやいますんですよ。
夫人  と、称してるんぢやなくつて?
るい  飛んでもない。始終、お邸の方々がお見えになります。さつぱりした、いゝ方でございますよ。
夫人  学校は何処?
るい  さあ、それは伺ひませんでしたけれど、もうたしか、大学へいらつしやる頃でございませうね。
夫人  あゝいふのにさへなつてくれなけれや……。
るい  なんでございますつて?
夫人  いゝえ、こつちのことよ。どら、あたしも一度東京へ帰つて、坊やの顔でもみて来ませう。
るい  ほんとに、時々はね。あちら様でもお淋しくつていらつしやいませう。
夫人  あなた、子供さんは?
るい  それが、わたくし、結婚つていふものを致しませんのです。これには、いろいろわけがございましてね。さきほども、あの御夫婦連れの、旦那様の方にお話しいたしましたんですけれど、わたくし、此処へ参りますまで、ずつと船へ乗つてをりましたもんですから……。
夫人  船へ? あゝ、道理で……。
るい  いえ、それがでございますよ。その船へは、あれで十六年でございますが、その前は、ある英国の方の御家庭に、ずつと御子様附をいたしてをりました。それが、十八の年からでございます。
夫人  でも、お嫁に行かうと思へば行けたでせうに……。
るい  さうは参りませんのですね。若い頃は、お嫁に行くなんてことを忘れてゐたんでございませうか、それに気がついた時は、もう、年を取り過ぎてをりましたんです。をかしな話もあればあるもんぢやございませんか。
夫人  まつたくね。
るい  それはさうと、船に乗つてをります頃が、花でございました。いゝえ、別に、そんな意味ぢやないんでございますけど、生活が楽しいと申しますか、仕事は荒うございますが、一番、人様のために尽し甲斐のある気がいたしました。航海の度毎にお客様のお顔は変りますけれど、ホテルのやうに頻繁ではございませんし、わたくしみたいなものでも、みなさまが重宝がつて下さいますんで、毎日、張合ひがございました。暴風雨《しけ》にでもなりますと、あつちでも、こつちでも、御用が殖《ふ》えます。船にお弱い方は、かう申しちやなんですが、あたくしを頼りに遊ばして、殊に、御婦人方は、なんでもわたくしでなければといふ風におつしやつて下さいますんで、こちらも、お世話をするのに、一所懸命なところがございました。船が最後の港へ着きますと、わたくしは、何時《いつ》も、泣くんでございます。
夫人  船員なんていふのには、相当|頼母《たのも》しい男がゐさうぢやないの。
るい  それや、ゐないこともございません。でも、こつちは、三十を過ぎたお婆さんでございますもの
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