いませう。しかし、いよいよといふ間際に、いつも、男の姿が眼に浮びますんです。
「何処かにゐるんだ」――さう考へますと、また、どうしても、決心が鈍つてしまひます……。さうかうしてゐるうちに、月日はずんずんたつてしまひました。
あんなに死にたいと思つたことが、不思議なくらゐに、すべてを諦めてしまつたんでございます。さういたしますと、過ぎ去つたあの出来事を、一生のうちの、忌《いま》はしい記憶にしたくないと思ふやうになりました。したくないと申しますと変でございますが、自然、別の眼で、あのことを見るやうになつたんでございます。つまり、生涯に、たつた一度の経験とでも申しますか、それは、考へやうによつて、わたくしには、尊い思ひ出なんでございますから……。いえ、別に、それを自慢にいたすんぢやございません。悲しい女の運命は、さういふところにも慰めが欲しいんだと、お思ひ下さいませ。あゝ、長々と、お喋《しやべ》りをいたしました。ほんとに、よく御辛抱下さいました。もう、大分、時間がたちましてございませう? 奥さま御食事は……?
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夫人 かまひません。まだ早いんですから……。
るい それでは、奥さま、こんな話をお聴き下さいました序《ついで》に、ひとつ、奥さまの御意見をおつしやつて下さいませんでせうか。
夫人 意見ですつて?
るい いゝえ、ね、奥様、今の、その男でございますがね、ほんとに、どうお思ひ遊ばします? 今更、どつちでもいいやうなもんでございますけれど、ひとつ、参考までに、奥様のやうな方のお考へを伺つておきたいと思ひまして……失礼でなければどうぞ、是非、御腹蔵なく……。
夫人 その男の、態度についてですか? 意見つておつしやるのは……?
るい はい、まあ、態度と申しますか、その気持でございますね。わたくしに対しましての。
夫人 さあ、それは、あんたのお考へ通りでいゝんぢやありませんか。どう考へなけれやならないつていふ問題でなく、人によつて、どう考へてもいゝ問題だと思ひますね。あなたは、なかなか、哲学者よ。
るい 学者なんて、滅相なことでございますけれど、いろいろ考へてみるのは好きでございましてね。
夫人 えゝ、まあ、議論はよしませう。(さう云つて、大儀さうに横を向く)
るい はい……。わたくし、ちよつと、失礼いたします。今夜、九時にお着きになるお客様がございますので、お部屋の支度をさせて参ります。
夫人 さあ、どうぞ……。
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るいの姿が右手に消えると、そこへ京野が食後の煙草を喫ひながら現はれる。
夫人は静かに起ち上つて、左手の窓ぎはに歩を運ぶ。
京野はさりげなく、そつちへ近づいて行く。
二人はしばらく、同じやうな姿勢で窓の外を見てゐる。
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京野 失礼ですが、奥さんは、小倉三郎君のお姉さんぢやいらつしやいませんか。
夫人 いゝえ。
京野 さうですか。それはどうも……。小倉といふのは僕の友人なんですが、丁度その姉さんが土屋といふ姓になつてゐるといふ話で思ひ出したんです。
夫人 土屋なんていふのは、ざらにありますわ。
京野 さうでせうか。でも、同胞《きやうだい》のやうに似てゐるといふのは、さうざらにはありませんよ。また、失礼かも知れませんが、小倉つていふのは、奥さんそつくりですからね。
夫人 無理に似せておしまひにならなくつても、ようござんすわ。御退屈でしたら、お話のお相手ぐらゐ、してさしあげますわ。(腰をおろす。笑ふ)
京野 いやだなあ、さう皮肉に出られちや……。しかし、小母《をば》さんだつておんなじレコードには聴き飽きてらつしやる筈ですよ。
夫人 ちよつと、お待ちなさい。人のことを小母《をば》さんだなんて、あなたは、いつたい、おいくつ?
京野 僕、二十一です。小母《をば》さんは?
夫人 不良ね、あなたは。
京野 あの婆あが、なにか喋《しやべ》つたんでせう。
夫人 婆あつて、だれ?
京野 僕から御注意申上げときますが、あの婆あに、話をしかけると、うるさうござんすよ。僕の母に云はせると、少し頭へ来てやしないかつていふんですが、そんなこと、お気づきになりませんか。
夫人 なるほど、人を気狂《きちが》ひにしてしまふつていふのは、便利ですわね、でも、気狂《きちが》ひが、ほんとのことを云ふ場合だつてありますし、どこからがさうだとは、云ひきれませんわ。今、実は、あの人の、身の上|話《ばなし》つていふのを聴かされたんですの。あなた、お聴きになつた?
京野 いゝえ、僕には聴かせませんが、僕の母には、何時《いつ》か、やつたさうですよ。閉口したつて、さう云
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