、そのためには、今日一般に行はれてゐるやうな、「小説本位」の批評、或は、「既成ドラマツルギイ」による戯曲性の討究は、害あつて益なきものであることを、私は痛切に感じてゐる。
それならば、その「純粋戯曲」乃至それに近いものは、これまでの戯曲に求め得られなかつた「美」の創造を目指してゐるのか、何か新しい「美」の本質を含んでゐるのかといふ疑問に対して、私は、必ずしもさうでない[#「必ずしもさうでない」に傍点]と答へる。
なぜなら、古今の傑作戯曲と称せられるものが、戯曲として[#「戯曲として」に傍点]、後世の模範となり得ることに変りはないからである。ただ、それらの傑作が、傑作たる所以を、殊に、それが戯曲として、本質的に「劇的魅力」を発揮する所以を、今日の眼で、新しく見直す必要があるとは云へるのである。そして、その「魅力」は、必ずしも、従来の批評家が指摘したやうな、単なる「文学的」乃至「演劇的」魅力ではなく、もつと独自な、「傑れた戯曲にのみ含まれる生命」――内容を生かし、形式を活かすところの、かの「韻律的なもの[#「韻律的なもの」に傍点]」であることを覚らねばならぬ。
世に定評ありと信じられ
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