的ならざるものとの分離が企てられねばならぬ。文学として、小説と共通なものさへ、試みに除外してみてもよいのである。
 仮に、そこまでは行かなくても、活字を通して、耳と眼に愬へる幻象《イメエジ》の文学は、観念の深化とリズムの調整に、ある「限度《リミット》」を発見しなければならぬ。この「限度」即ち「制約」が、戯曲美構成のルツボであり、劇文学独自の領域であることを、その作品に於て示さねばならぬ。無用な謙遜を抜くとしたら、私は、この野心を、自分の戯曲創作に於ける唯一の楽しみとするものである。
「現代俳優」のゐない国に生れ、不幸にして現代戯曲の創作を志すものにとつて、これ以外の楽しみがあらうとは思へぬ。

     新しいドラマツルギイ

 一見デカダン的とも考へられさうなこの傾向が、現在わが国のやうな「演劇的雰囲気」の中からは、当然生じ得るものであることを、先づ、批評家諸氏に注意していただきたい。
 それと同時に、将来、才能ある青年の手によつて、「純粋戯曲」とも呼ばるべき作品或はこれに近き傾向の戯曲が発表された場合、その価値批判が誤まられないことは、日本文学の進化の上に、甚だ望ましいことであつて
前へ 次へ
全17ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング