るかのチエホフの戯曲は、今日まで、わが国に於て、真に、戯曲として、その本質的な「美」が問題とされたであらうか? その戯曲の魅力は、恐らく、翻訳を通してさへも、ある程度まで「感じられ」たであらう。しかし、それは、単なる「文学的」な感じ方であるか、或は、「演劇的」に、漠然とした「生命感」の享け入れに止まつてゐるやうに思ふ。
シェイクスピイヤ、イプセン、マアテルランク、みな然りである。
そして、演劇を論ずるものは、戯曲の生命を、かの「意志争闘」説、「危機」説等に結びつけ、「筋」の定型的発展に拘泥し、幕が切れてゐるとかゐないとか、解決があるとかないとか、独白は古いとか新しいとか、人物の出し入れがうまいとかまづいとか、これは小劇場向きだとか、いや大劇場向きだとか、子供が死にさうだのにすぐに医者を呼びに行かん法はないとか、さういふことばかりを問題にしてゐたのである。
さういふ論議も、ある時代には、それ相当の意味があるであらう。だが、今日のやうな演劇の行き詰つた時代に、露天に万の群集を集めた希臘悲劇の形式原理を振り翳し、「通俗物語の定跡」として知れ渡つた「興味のつなぎ方」を、戯曲美の本質と混同
前へ
次へ
全17ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング