劇文化が全面的に確立するのである。
 われわれは、今、「強ひて」戯曲を書きつつある観がある。よくよくの動機がなければならぬと云つたが、それはどんな動機を指すのであらう? 言ひ換へれば、何を楽しみに戯曲を書き、また、書かうとしてゐるのであらう?
 漠然と「新劇」なるものの舞台に憧れるもの、明かに職業を標榜するものを除き、私は、「新劇の一つ手前のもの」を、一日も早く、わが日本にも作り出したいといふ望み、それが明日にでも生れ出るだらうといふ楽しみが第一であらうと思ふ。
 従つて、さういふ種類の戯曲は、高級雑誌の創作欄にも、娯楽雑誌の読み物にも、通用せぬものである。劇場の門は閉され、活字に組むことを拒まれて、どこに発表の機会があるであらう。
 例へば、最近評判になつた映画「夢見る唇」――「メロ」の如きは、この意味に於ける代表的作家ベルンスタンの戯曲を原作とするものであるが、この種の通俗現代劇《ブウルバアル》すら、日本に於ては、仮に書かれたものがあるとしても、日の目を見る可能性はないであらう。やや古くは、デュマの「椿姫」も、ベルナアルの「英語」も、パニョオルの「トパアズ」も、わが国では、生れ得ないものである。
 ベックの「鴉」も、ボルト・リシュの「過去」も、ロマンの「クノック」も、ジイドの「サユウル」さへも、これらの所謂「新劇」は、その土台の上に、そして、その雰囲気の中に於て、初めて生れ得たものであることを思へば、われわれは先づ、足許をたしかめねばならぬ。
 かういふ実情におかれ、われわれは、それでもなほ、戯曲を書き、これを発表する欲望を禁ずるわけに行かぬ。
 そこで、「活字としての戯曲」の存在意義を考へる。「|読む戯曲《レエゼ・ドラマ》」といふ名称の誘惑にかからうとする。が、今日では、かくの如き形式が、何等の魅力をもたない時代であることに気づく。少くとも、それは、「演劇華やかな時代」に小説家乃至詩人が、故意に選んだ反逆的にして、しかも好事的な形式であることを知つてゐる。
 抜け道は一つである。即ち、戯曲に於ける文学性の独立を目指して、小説と詩の中間に介在する劇文学の樹立――散文と純粋詩の進化過程に並んで、真の戯曲精神を探究し、把握しようとする努力がこれである。
 この努力は、窮極に於て、戯曲より一切の戯曲的ならざるものを排除するまでに至らなければならぬ。本質的なものと、本質
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