的ならざるものとの分離が企てられねばならぬ。文学として、小説と共通なものさへ、試みに除外してみてもよいのである。
仮に、そこまでは行かなくても、活字を通して、耳と眼に愬へる幻象《イメエジ》の文学は、観念の深化とリズムの調整に、ある「限度《リミット》」を発見しなければならぬ。この「限度」即ち「制約」が、戯曲美構成のルツボであり、劇文学独自の領域であることを、その作品に於て示さねばならぬ。無用な謙遜を抜くとしたら、私は、この野心を、自分の戯曲創作に於ける唯一の楽しみとするものである。
「現代俳優」のゐない国に生れ、不幸にして現代戯曲の創作を志すものにとつて、これ以外の楽しみがあらうとは思へぬ。
新しいドラマツルギイ
一見デカダン的とも考へられさうなこの傾向が、現在わが国のやうな「演劇的雰囲気」の中からは、当然生じ得るものであることを、先づ、批評家諸氏に注意していただきたい。
それと同時に、将来、才能ある青年の手によつて、「純粋戯曲」とも呼ばるべき作品或はこれに近き傾向の戯曲が発表された場合、その価値批判が誤まられないことは、日本文学の進化の上に、甚だ望ましいことであつて、そのためには、今日一般に行はれてゐるやうな、「小説本位」の批評、或は、「既成ドラマツルギイ」による戯曲性の討究は、害あつて益なきものであることを、私は痛切に感じてゐる。
それならば、その「純粋戯曲」乃至それに近いものは、これまでの戯曲に求め得られなかつた「美」の創造を目指してゐるのか、何か新しい「美」の本質を含んでゐるのかといふ疑問に対して、私は、必ずしもさうでない[#「必ずしもさうでない」に傍点]と答へる。
なぜなら、古今の傑作戯曲と称せられるものが、戯曲として[#「戯曲として」に傍点]、後世の模範となり得ることに変りはないからである。ただ、それらの傑作が、傑作たる所以を、殊に、それが戯曲として、本質的に「劇的魅力」を発揮する所以を、今日の眼で、新しく見直す必要があるとは云へるのである。そして、その「魅力」は、必ずしも、従来の批評家が指摘したやうな、単なる「文学的」乃至「演劇的」魅力ではなく、もつと独自な、「傑れた戯曲にのみ含まれる生命」――内容を生かし、形式を活かすところの、かの「韻律的なもの[#「韻律的なもの」に傍点]」であることを覚らねばならぬ。
世に定評ありと信じられ
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