演劇当面の問題
岸田國士
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)通俗現代劇《ブウルバアル》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|読む戯曲《レエゼ・ドラマ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)必ずしもさうでない[#「必ずしもさうでない」に傍点]
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戯曲不振の理由
「戯曲家は生れながら戯曲家である」といふやうなことも云はれるが、しかしまた、戯曲家が戯曲家たる動機は、小説家が小説家たり、詩人が詩人たる動機と決して異つたものであるとは云へないのであつて、少くとも今日までの歴史を通じてみれば、多くの例が、その点について興味のある事実を語つてゐるのである。
つまり、一人の優れた戯曲家は、必ず、その周囲に、彼の戯曲創作慾を燃え立たせる「演劇的雰囲気」を有つてゐたのである。時として、それは名戯曲の名演出を屡々観ることであり、時として、それは、傑れた戯曲家を友とすることであり、時として、それは、名優に接近する機会を得ることであり、時としてそれは、某女優の容姿又は才気に心惹かれることですらある。が、要するに、今日のわが国の如き、劇場に魅力なく、「現代の俳優」を欠く変調時代に、傑れた戯曲が生れず、戯曲を書かうとするものの稀なのは、寧ろ当然であつて、少しも怪しむに足りないのである。
そこで、今日まで、文筆を以て立たんとするもののうち、戯曲創作を志す一部の人々は、辛うじて外国の名戯曲を読むことにより、「演劇的刺激」を受けてゐたのであるが、しかも、その刺激たるや、実は「演劇的」でなくして、単に「文学的」であつたといふ皮肉が、現在の「新劇」を行きづまらせた最大の原因である。
それと同時に、わが国従来の「新劇」関係者が、外国劇以外に求めた「演劇的雰囲気」は、決して、「新劇」の名に応はしいものでなかつた。つまり、「歌舞伎的」であり、「新派的」であり、殊に、「素人の独りよがり」であつた。かかる雰囲気から生れ、かかる雰囲気に育てられた「新劇」が、「演劇的」に未開の新領土を開拓し得るわけがないのである。
しかし、外国戯曲の翻訳及びその上演によつて、外国劇の「外貌」を紹介し得たことは、何等かの意味で、ある時代を刺激し、一つの新しい「演劇的雰囲気」を作つたに違ひない。が、それは既に過去のことである。
それならば
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