、現在の舞台を度外視し、文学的に傑れた戯曲を書くものがゐてもよからうといふ意見に対しては、私はかう答へる。――さういふ現象こそ、実は、傑れた文学的才能をもつた作家が、偶々魅力ある「演劇的雰囲気」に接して、気まぐれにおれも戯曲を書いてやらうと思ひ立つた時に生じるものである――と。しかも、小説を書き、詩を書き、評論を書いてゐれば、凡そ、文学的欲望の悉くは満たされると云つていい時代に、なにを好んで、「制約」と「虚偽」に煩はされつつ、戯曲を書かうぞと、今日の作家は答へるであらう。
現代の商業劇場が、教養ある人々を遠ざけてゐると同様に、今日の戯曲壇は、才能ある青年を振り向かせないかに見える。
私が如何に演劇を愛するにせよ、現在の状態を以てしては、ここに諸君の席があると、大声に彼等をさしまねく勇気はない。
そこで、私は、一つの逆説めいた云ひ方をする。曰く、「戯曲といふものは、小説家でも、詩人でも、評論家でさへも、いざ書かうと思へば書けるものである。但し、いざ書かうと思ふには、何か、書きたくなる動機がなければならん。また、書いたものが、戯曲としては価値があるかないかは、その人の稟質によつて決定されるものである。が、うまければお慰み、へたでも恥にはならぬといふ特権がある。戯曲は文学者の余技となり得るものである」と。
かういふ考へ方は、専門の戯曲家を以て任ずる人々、乃至は、これから戯曲家として立たうとする青年を怒らせ、又は失望させるかもわからない。が、私は、さういふ側の立場からも一つ、云ひたいことがある。
今日、劇作を一生の仕事とする決心を抱くためには、以上述べたやうな理由によつて、そこには、何かしら、意外な動機がひそんでゐるやうに思はれる。
現在の商業劇場を目当てに、多少の不満はありながら、兎も角も、その要求に応じる脚本を製作提供することは、劇作を職業とするものにとつて、已むを得ぬ事情であらうと思ふし、さういふ中からも、過去未来を通じて、相当芸術的な作品が出てもいいわけであるが、それはしかし、甚だ限られた条件がついてゐる。即ち、「現代文学」とは先づ縁のない作品でなければならぬといふことである。近代人の思想も感情も神経も、その生活一切は、今日の職業俳優には畑違ひであつて、少くとも、その演技の基調は、封建的乃至鎖国的臭味で一貫されてゐるからである。
従つて、「生活のために
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