るかのチエホフの戯曲は、今日まで、わが国に於て、真に、戯曲として、その本質的な「美」が問題とされたであらうか? その戯曲の魅力は、恐らく、翻訳を通してさへも、ある程度まで「感じられ」たであらう。しかし、それは、単なる「文学的」な感じ方であるか、或は、「演劇的」に、漠然とした「生命感」の享け入れに止まつてゐるやうに思ふ。
シェイクスピイヤ、イプセン、マアテルランク、みな然りである。
そして、演劇を論ずるものは、戯曲の生命を、かの「意志争闘」説、「危機」説等に結びつけ、「筋」の定型的発展に拘泥し、幕が切れてゐるとかゐないとか、解決があるとかないとか、独白は古いとか新しいとか、人物の出し入れがうまいとかまづいとか、これは小劇場向きだとか、いや大劇場向きだとか、子供が死にさうだのにすぐに医者を呼びに行かん法はないとか、さういふことばかりを問題にしてゐたのである。
さういふ論議も、ある時代には、それ相当の意味があるであらう。だが、今日のやうな演劇の行き詰つた時代に、露天に万の群集を集めた希臘悲劇の形式原理を振り翳し、「通俗物語の定跡」として知れ渡つた「興味のつなぎ方」を、戯曲美の本質と混同して、原始批評の幼稚さを訂正し得ないといふことは、誠に遺憾である。
歴史は、既に、作品として、これに対する反逆を物語つてゐながら、理論家は、何故に、その精神を汲み取らなかつたか?
自然主義時代に於ける、「生活の断片」説は、演劇論的に、未だ本質を衝いてゐず、求めんとするものは、偏狭な趣味であつたけれど、実は過去のドラマツルギイに対する厳然たる抗議を含んでゐた筈だ。
近年に於ける「演劇の再演劇化」の運動は、一方、この抗議を聊か緩めたかの観があり、舞台は、再び、浪漫的色彩の勝利に傾いて、そこからも、旧来のドラマツルギイが、時を得顔に頭をもたげて来た。
しかしながら、真の「舞台的」魅力は、所謂写実主義の理論からも、所謂「浪漫主義的」声明からも生れては来ないのである。
「生活の断片」説を唱へたジャン・ジュリアンが、いみじくも、そして、偶然に喝破した「生命による動き」なる一言は実は、古くして新しい「舞台の脈搏」を指すものであり、戯曲にナチュラリズムなる一派を開いたブウェリエの所謂「魂のリズム」なる標語は、これまた期せずして、古今の戯曲家がその才能に応じて、それぞれの作品を生かした本質的生命
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