を指すものに相違ない。
 かくの如く、演劇の本質は「動きによる生命」にありとし、主として「視官」に愬へる要素を戯曲形式の基礎と考へた在来の「ドラマツルギイ」に対し、一種の新しいドラマツルギイが、既に、多くの近代作家の頭脳を支配してゐたのだと思ふ。ただ、彼等が属する「文学的流派」の消長によつて、各々の宣言は、劇文学の一貫した理論を形づくるに至らなかつたまでである。
 その最も著しい例は、「演劇の革新は、先づ文体より始めざるべからず」と主張したヴィクトル・ユゴオの、何かしら解つたやうな、それでゐて遂に目標を見失つた、かの有名な「クロンウエル」の序文にこれを発見することができる。彼は、疑ひもなく、その戯曲に「浪漫主義的リズム」を盛ることで、その特色をはつきりさせようと企てたのだ。そして、そのリズムは、遂に、「詩のリズム」から出てゐないところに、彼の戯曲家としての失敗がひそんでゐたのである。言葉の幻影が、彼をして「観念の抑揚」に対し鈍感ならしめたと云つて誤りはないのである。
 要するに、今日の戯曲不毛は、日本の劇文壇に於ける、「新しいドラマツルギイ」の未だ確立されないところに、一つの原因があると思ふ。
 作品は常に理論に先立つといふことに異論はないが、わが国の現状からみれば、戯曲が「演ぜらるべく」書かれるといふ望みを捨てなければならぬ以上、これを文学として、完全に独立した一形式にまで発達させる必要から、私は、幾分重複を顧みず、纏りのない私見を述べて、何等かの手応へを待ち望んでゐるのである。
 本質的戯曲は、要するに、一定の時間で、即ち、その戯曲の要求する速度に従ひ、耳と眼に愬へる一切の幻象《イメエジ》を追ひつつ、そこから、観念の多元的な抑揚を捉へ、心理的に調和と統一ある韻律美を感じ得るやうに「読まれ」ねばならぬことになるのである。かういふ努力を誰にでも強ひるわけには行かぬが、この努力なしに、如何なる戯曲をも「理解し」得たとは云へぬのであつて、戯曲文学は、ここではじめて、劇場を離れて、一個のジャンルとしての分野を占有し得るわけである。
 繰り返すやうであるが、古今の名戯曲と称せられるものは、この本質によつて、特殊な魅力を放ち、不朽の生命を保つてゐることを私は信じ、せめて、今日のわが戯曲壇が、戯曲の「文学性」と「演劇性」なる不徹底な論議に日を過さず、文壇と劇壇の両道を右顧左眄す
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