、旧流派に対抗する「新時代」の合言葉であつて、中には、「明日の舞台」が実現した例もあり、「空想の舞台」が空想で終つた例もあるところをみると、やはり、かういふ主張は、永久に繰り返されていいものであらう。
そこで、「明日の劇場」又は、「空想の舞台」のために戯曲を書くといふことであるが、さういふことを云つてゐる戯曲家も、実は、「今日の劇場」「現実の舞台」から、いろいろな意味で刺激を受け感興を与へられ、目標を示されてゐることは、西洋の実例を取るまでもなく、わが小説壇の発達をみればよくわかるのである。しかし、日本の現在に於ける戯曲壇はどうであらうか? 誰が、「明日の劇場」を予想し得るだらう。誰が、「空想の舞台」を頭に描いて、真に「演劇的」快感に浸り得るであらう?
われわれは、「現在の演劇」の、どこをどうしたいと思ふ前に、それを根本から、何から何まで変へてしまひたいのだ。変へなくてはなるまいと信じてゐるのである。
第一に、劇場組織、第二に俳優の素質、第三に脚本発表の形式、第四に俳優と作者の関係、第五に稽古の方法、第六に、観客層の整理、第七に、劇評の役割……等々、挙げれば際限がない。
しかし、歴史と社会一般の情勢からみて、私は必ずしも「理想論」を唱へようとは思はぬ。演劇の娯楽性といふことも、一応肯定してよろしい。興行なるものの営利的半面も、序に許すとしよう。更に、俗衆の低劣な趣味に投ずる売笑的演劇の存在にすら、当分眼をつぶることにしておかう。だが、多少とも文化的意義をもち、教養ある事業家の矜恃を示すに足る劇場の一つや二つは、東京のどこかに、もう生れてゐてもいい頃ではないかと思ふ。卑近な例をとれば、唯今、われわれをある程度まで誘引する舶来映画の魅力に匹敵する演劇が、これを思ひ立つものさへあれば、企業として成立しない筈はないと思ふのである。
この標準すら、「未来の演劇」と呼ばねばならぬところに、今日の青年を「演劇的雰囲気」から遠ざけ、われわれの多くに、戯曲創作の楽しみを半減させてゐる理由があるのである。
勿論、この標準の劇場が、譬へあつたところで、それを不満とし、これに対抗する「純芸術劇場」の必要が叫ばれるであらう。そして、これを目差す先駆的作家の一群が、更に選ばれた少数の観客に、「妥協なき舞台」なるものを提供するであらう。ここで初めて、「新劇運動」の意義が生じ、一国の演
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