は公の機関としての性質を帯び、劇芸術は国民錬成の具として、教練、音楽とともに政府の手で急速に普遍化されたのである。
ドイツばかりではなく、フランスでも、イギリスでもイタリアでも、演劇が社会教育的に利用され、例へば国立劇場へは父兄が子女の躾けのために彼等を同伴するといふやうな風は屡※[#二の字点、1−2−22]見られないことはない。第一にそこでは、国民尊崇の的である古典的劇詩人の傑作に親しみ、最も正確に且つ巧妙に話される国語の美しさを会得し、最後に、教養ある観客の十分訓練された観劇の作法を学ぶのである。
為政者は演劇をかくの如く利用せしめなければならぬと同時に、演劇の水準をここまで高めることに不断の努力を払ふべきである。教育政策と芸術政策との不離不即の関係がここにみられる。つまり、文化政策の一元的運営といふことが、制度の上のみならず、為政者の頭脳と感覚の問題として解決されなければ、望ましい結果は得られまい。さて、ドイツ以外の国では、かくの如き意味での演劇の社会教育的価値は認めてゐるやうであるが、ドイツの如く、それに加へて、国民の集団的訓練にこれを利用することの効果に早くから着眼したところは、蓋し絶無であらう。即ち演劇的行動それ自身の「協力」と「統一」の絶対性に基く歓喜と満足とを、知らず識らず国民の生活のなかに浸潤せしめようとするものである。ドイツ演劇に於ける演出者の優位は、国民性に基く自然の現象であると同時に、この現象はドイツ演劇学及び演劇理論の中心をなすものであり、かかる演劇の特質はまた、国民精神の陶冶と生活訓練の大きな役割を果してゐるとみるべきである。
今次大戦に於けるドイツ銃後運動の一つとして、いはゆる「K・D・F」の名が世界に喧伝された。要するに農村、工場等を巡回して演劇、演芸などを生産勤労者の集りに上演し、大いに士気を鼓舞しようといふナチス独特の組織的宣伝隊である。この費用は全部国庫から出るもので数億円の予算が計上されてゐると聞くが、かういふ仕事にすぐさま動員できたドイツ青年たちは、決して、この運動が起つてはじめて急ごしらへに教育を受けたのではなく、既に彼等は、必要な基礎的訓練を、幼少の頃から身につけてゐたに違ひないのである。
近代国家の演劇政策を通じて見逃すべからざることは、対外文化宣伝にこれを利用することである。前大戦中、フランス政府が巴里の一研究劇団に過ぎぬヴィユウ・コロンビエ座を紐育に派遣し、満二年間、常設的にその上演目録を公開せしめた如きは、その最も顕著な例であるが、もともと、演劇はその綜合性のゆゑに、一国のもつあらゆる文化的特質の鳥瞰図、案内書の如きものであつて、外国旅行者は必ず世界各都市の劇場を訪ひ、それが若し相当の名士ならば俳優と楽屋で会ひ、夜食を倶にし、若しそれが素寒貧書生ならば、せめて記憶に残つた名優のプロマイドを買つて帰るのである。
ここに於て、およそ自他共に文明国を以て許す国々は、外客に対し、これぞわが演劇文化の粋なりと誇り得るやうな施設及び人的要素を整へておかうとする。国内的には社会教育の効果をねらひ、対外的には文化宣伝の具たらしめるやうな、模範劇場及び劇団の経営を、国家自らの手で、或は少くとも国家の負担に於て行ふのが定石である。
それならば、如何なる演劇が最もその目的に合致するか? その国の古典劇上演はもちろんはぶくわけに行かぬ。しかし、それが仮にシェクスピヤやモリエールやシルラアの如き誰でもその名声を知つてゐるやうな大作家のものでも、古典劇だけでは宣伝価値はわりに少い。シェクスピヤは、英国の作家で英国人だぞと威張つても、これが本格的なシェクスピヤの舞台だと折紙をつけてみても、外国人はそれほど感心もしなければ、珍しがりもしないのである。まして、それだから、現代の英国に好意をもち、尊敬を払ふといふ具合には行かぬ。そこで、現代劇を同時に並べる。場合によると現代劇だけをやる。むろん、現代作家の粒撰りであるが、これまた、老大家だけでは腕はたしかでも、新鮮味が足りない。新進作家のほぼ定評ある幾人かを拾ひあげる。作品は先づ他の劇場で成功裡に上演された試験ずみのものからはじめる。思想風俗の上から無難といふ条件は、それぞれの国柄に応じて守られるが、特に、外交上の考慮が必要である。何よりも自国の文化を毒し、他国人に誤解、或は過少評価せしめるやうなものは禁物である。国民性の弱点を誇大に示したもの、或は、無意識にこれを暴露したものもよろしくない。しかし、国民精神乃至国力の素朴な自画自讃は一層考へものである。自国民の矜りともなり、異邦人の共感を呼び、彼等をしてわれに親しみ、且つ、学ばんとする心を起さしめるやうな演劇は、国民挙つてこれを創り出さなければならぬものであらう。そしてこれはもはや、「宣伝」の意図を微塵も交へない、創造の精神にのみ負ふところの芸術自体でなければならないのである。
モスクワ劇団の前大戦直後に於ける世界巡業が、私の知る限り如何に真のロシヤ人なるものを一般に理解せしめ、その舞台の圧倒的魅力を通じて、ロシヤ愛好者を多数生ましめたかをみるがよい。或はまた、フランス国立劇場俳優団の定期的南米巡業が、如何に南米、殊に、アルゼンチンのフランス化に貢献してゐるかをみるがよい。
演劇を通じての対外宣伝に於て、最後に考へなければならぬのは、俳優の素質についてである。このことは、後段わが国今後の演劇政策に関するくだりに於て勢ひ触れることになると思ふが、抑も近代国家に於ける演劇のいくらかの質的改善は、俳優の教養及び品位の高まりにその原因の主なるものがあるのである。演劇はそのために多少道徳的信用をとりもどし、俳優の社会的地位が向上した。欧米に於ける一流の俳優は、他の社会の一流人士と対等の交際ができ、交際ができるばかりではない、対等の喧嘩ができるといふのが掛値のないところである。つまり堂々と誰の前でも所信を述べ、それが専門的のことであらうとなからうと、一個の近代的教養をもつた芸術家として、その言説に耳を傾けさせ、しかも、俳優らしく、その表現には常人の企て及ばない独特の魅力があり、決して好奇的な眼を満足させるのではなく、自らそれぞれ恃むところのある社会人に、ある種の精神的快感を与へ得る資格を備へてゐるのである。かういふ俳優は、誰が作るのでもなく、自然に生れるのだと云へばそれまでであるが、それには、やはり、さういふ俳優を生みだす地盤が必要であり、俳優の素質を吟味する標準がそこにおかれてゐなければならぬ。
俳優養成の国家的機関が何れの国にもあつて、そこでは、専門の技術教育を施すほかに、品位と機才に富むいはゆる「民衆の偶像」を作り出さうとしてゐるのである。
演劇政策はまた文芸政策と表裏一体の関係をもたねばならぬ。なぜなら、上演脚本の生産は劇場に於てと同様、文学者の書斎に於ても亦なされるからである。
近代国家が文芸政策の中心として取り上げたのは云ふまでもなく、文芸院の設立である。文学者中、国家が認めて第一流と目する詩人、小説家、劇作家、評論家、歴史家、新聞記者等を会員に推し、(会員は新会員の選挙権をもつのが普通である)主として、自国文化の昂揚といふ点から見た文芸作品或は研究の選賞、自国語の純化を目的とする綜合辞典の編纂改修、外国文学者及び外国文学界との公式の交歓にその任務があり、会員は老後の生活を保証するに足る年金を受ける制度になつてゐるやうである。
欧米諸国に於て、この種の機関は殆ど例外なく存在するけれども、それぞれ多少の特色を示してゐて、その使命及び業績は一様とは云ひ難い。フランスのアカデミイ・フランセエズ(翰林院)はその歴史最も古く、十七世紀ルイ十四世の時代に創設されたものであるが、会員中には、文学者のみならず、フォッシュの如き軍人もはいつてをり、科学者、宗教家なども、その学識のゆゑにいはゆる「不滅の名」に加へられてゐるものがある。
そこで、この文学アカデミイは、演劇に於ける戯曲の地位を確保するばかりでなく、その傾向にもある種の影響を及ぼすものであつて、もとより、アカデミイはアカデミイとしての官学臭を帯びざるを得ず、これに対して、絶えず野党的批判はあるにしても、少くとも営利を主とする商業劇場に対して、国立劇場の存在と共に、相当、牽制の役割を果してゐることは事実である。
次ぎに、劇作家組合の保護である。この組合はもともと劇作家の連帯による自己の利権の擁護を動機として生れたものであつて、ある意味では旧来の「政治」と対立するが、また一方、興行者及び俳優の横暴から劇作家を救ふ点に於て、政府の理解と支持の上に成立つてゐる。
劇作家組合の規約は、別に法的根拠を有するわけではない。しかし、組合の強力な場合は、殆どこれに匹敵する効力を生んでゐる。例へば、ある劇場が特別な関係を理由として或る特定の作家の脚本のみを上演する場合、組合はそれに抗議して他の作家の作品をも上演することを強要できたり、俳優及び興行者の動もすれば戯曲の文学的価値を無視せんとする傾向に対し、作家は稽古の最後に臨んで若し自己の意に満たざるものある時は、初日を延期する権利を主張したりしてゐるところもある。
文芸政策と関連をもつ演劇取締の手段として、脚本検閲の問題を見逃すわけに行かぬ。上演脚本の検閲と文学的出版物の検閲とは、その間自ら検閲の標準に手心が加へられることは何処でも同じである。根本の方針は、飽くまでも一貫したものでなければならず、これを行政的に如何に処理するかは、国情によつて、といふよりも寧ろ、その国の芸術政策が何人によつて樹てられるかにより、様々な工夫の跡が見える。
ナチス政府は、党の一機関として、宣伝省の外廓にクルトゥール・カンマア(文化院)なる芸術文化各領域の職能組織を確立し、文学も演劇もこれを一元的機構のなかで統制指導する制度を採用した。
フランスに於ては、戦前まで、文部省が芸術政策の運営実施に当り、文学作品も上演脚本も共に、芸術局がその検閲に当つてゐた。議会に於ても、有力な代議士が政府の検閲方針について質疑的批難を加へれば、文部大臣並に芸術局長が、堂々これに応酬するといふ光景が屡※[#二の字点、1−2−22]見られたのである。
演劇政策の行政的な現れ方は、いはゆる自由主義時代まで、わが国に於ては、主として劇場並に劇場関係者取締及び脚本検閲なる形に於てしかこれを見ることができなかつたのであるが、近代国家としての発展に伴つて、やうやく「演劇法」の制定が計画せられ、保護、助成、指導の方向へ一歩踏み出さうとしてゐることは慶賀に堪へない。
しかしながら、日本の演劇の特殊性に鑑み、ここに大いに留意すべきことは、明治維新この方、政府はわが演劇に対し、この本質的な問題を如何に取扱ひ、これにどの程度の考慮を払ひ、これが対策として何をなしたかといふことである。憚りなく云へば、日本の近代文化は、すべて他の領域に於ては多かれ少かれ、政府の手によつて、またその力によつて、急速な進歩を遂げたが、芸術の領域に於ては、単に美術学校と音楽学校との創立を見ただけで、民間識者の間で演劇改良の叫びが挙げられたにも拘らず、遂に、政府は何等これに応へるところはなかつたのである。
民間の識者も、なるほど日本固有の演劇の弱点をよく認識し、これを真に国民的なる芸術にまで高めようといふ熱意はもつてゐたに相違ないが、それらの人々は、遺憾ながら、演劇に関する専門的な知識も、また演劇の文化的役割について的確な判断を下す感覚もなかつたから、その主張と運動の実質は、強力に時代を動かすものとはなり得なかつた。
爾来数十年、演劇の革新は殆ど常に文学者及び素人俳優を中心とする少数の同志によつて試みられたが、様々な障碍に遭つて挫折に挫折を重ね、時には国体と相容れざる思想運動に逸脱する一部の傾向を生み、法の処断を受けて解散する団体もできた。その結果、いはゆる「新劇運動」なるものは、概して為政者の警戒するところとなり、もともと、歌舞伎劇を主流とする既成演劇の因襲と商業主義に
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