ことを禁ず。
同、八年三月――役者の衣類は絹、紬、木棉、舞台にては平島、二重、紬たるべく、紺屋染物、紫裏、紫頭巾、繍類、一切を禁ず。野郎(青年俳優のこと)舞台を了りて奉公人(武士のこと)と出会ふべからず、百姓町人たりとも参会長座すべからず。
延宝六年三月――「役者共、武家方並町方等へ罷越し、長居致候上、一泊致候旨も有之やに相聞え、以ての外に付、以来は被招候とも一切相越申まじく」「役者住居の儀も、堺町、葺屋町、木挽町、最寄に住居致し、但素人家に同居は不相成、又他業の者を同居に差置申間敷」と命ぜらる。
同、十二年二月――青年俳優の外出を厳禁す。
元禄二年五月――江戸中の野郎残らず鬢の厚さ五分に剃下し、早々御番所へ出で、御眼にかけべきこと。
同、十六年二月――時事を劇に演ずることを禁ぜらる(前年赤穂義士の討入あり)。
正徳三年五月――興行の夜に入るを禁ぜらる。
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以上は八代将軍吉宗が職につくまでの無数の禁令中から目ぼしいものを拾ひあげたに過ぎぬが、しかもこれは江戸に限り、京、大阪が同様な干渉を受けてゐたことは想像に難くない。これらの禁令に触れて所罰を受けたもののうち、獄に投ぜられたものも多数ある。なかでも、武家の妻女、または召使との間に生じた事件が度々世間を騒がせ、かの七代将軍家継の時、奥女中絵の島が生島新五郎なる俳優と懇ろであつた科で、両者とも流罪に処せられ、絵の島の兄平左衛門は責任者として死罪を申渡されたことは有名な話である。
それ以後、更に、寛政年間に於ける松平定信の内閣、及び天保の水野忠邦の内閣は、演劇取締の点にかけても厳格を極めた。即ち、松平内閣は、俳優の華美贅沢を戒めると同時に、俳優の住居が名実とも「外より見通し候やう可致」と命じ、盗賊の宝蔵へ忍入る事件を取扱つた脚本を上演禁止し、俳優の給金規定を設け、劇場の事務員を制限し、旅興行を許可制とし、一方、俳優に対する興行者の義務を明かにして、虐待と搾取に対する保護を加へた。次いで、水野内閣に至つて、将軍家慶の時代に、劇場の火災防止上危険なること、及び風教上悪影響あることを理由として、まつたくこれを廃止するか、地方の一隅へ移転せしめるかしようといふ議さへあり、天保十三年七月、遂に、俳優は四季を問はず深編笠を着てでなければ外出罷りならぬといふ布令が出た。また、草双紙、錦絵類に役者の似顔絵を描くことが禁止され、劇場建築に大さの制限が設けられる等、禁令禁止相次ぐ有様で、それにつれて、俳優の或は追放に処せられ、或は住居を取毀され、或は手鎖をはめられ、殊に罰金の刑に科せられるものなど、殆ど寧日なきほどであつた。
従つて、歌舞伎は良家の子女の足を踏入れるところではないといふ通念ができ、裏面に於ては、貴族も武士も常に劇場に出入し、俳優と交際してゐるものもあつたが、公にはこれは赦すべからざることであつた。紀州侯の令嬢がある日芝居小屋をちよつとのぞいたといふ事実が発覚し、令嬢は国許へ幽閉、供の侍は切腹仰せ付けられるといふ騒ぎまで持ち上つたのである。
要するに、徳川幕府が演劇興行を取締るため発した法令は、結局、奢侈及び淫靡なる風潮が社会に及ぼす影響を考慮したものであり、その主旨たるや当然、首肯し得るのであるが、更に具体的にそれらの禁令の実施された結果をみると、今日の歌舞伎劇の不自然な特色は、多くは、そこに由来することが明かになるのである。
第一に、俳優が一般社会と全く遊離した生活を営まざるを得なかつたこと、従つて、それだけ変態的な生活感情及び風習を身につけてしまつたこと。
第二に、俳優は下賤なる職業なりとの印象を強く世間に与へたこと。いはゆる「河原乞食」または「河原者」として社会より蔑視されるやうに仕向けたとさへ云へるのである。これは同時に、日本演劇の品位を下落せしめ、低俗な娯楽物の域に止まらせたことにもなる。
第三に、演劇が本来もつ歴史及び時事に関する啓蒙の役割をまつたく放棄し、徒らに事件の興味を追ふ筋本位のものとなつたこと。即ち、現在の人名を使用することを禁じたのはまだよいとして、歴史的意義をもつ社会の出来事を絶対に脚色させなかつたことは、例へば赤穂義士の事件を足利時代としたり、家康を北条時政としたりして、民衆がある程度これを推知するに委せはしたが、勢ひ実感に訴へる力が弱められ、演劇はそれだけ架空の物語といふ印象を与へるに過ぎないやうになつた。
階級制度が社会秩序を維持した時代とは云へ、国民の大多数たる庶民階級の好尚が、かかる政治の下に如何に方向づけられ、如何に伸び育つであらう。幸にしてわが民族の恵まれたる資質は、如何なる条件の下に於ても、営々として美の創造を怠らず、今日、世界演劇を通じて最も驚異とするに足る舞台の一形式を完成したのであるが、かかる形式の演劇が徳川幕府の政治――延いては、その時代の社会的事情を背景として生れたのだといふことを考へれば、明治維新を経て昭和の現代に至るまで、その政治的革新も、社会的進化も、歌舞伎劇に対しては微々たる作用を及ぼしたに過ぎぬといふことになる。民衆の生活に深く根をおろしたものの、遂に抜きがたき力となることかくの如くである。幕府政治は滅んだ。しかし、「政治」の性格が民衆に示す相貌は、みんなが思ふほど変つてゐないところにも、歌舞伎劇の生命があるのかも知れぬが、それよりも、私は、やはり歌舞伎劇の力と美が、われわれの祖先の長日月に亙り、求め、創り、磨き、そしてわれわれの時代に伝へたものだといふことに、誇りと親しみと感動とを覚えるものである。
三 近代国家と演劇政策
芸術家が一般に芸術の目的と使命とを自覚し、意識的に「高い芸術」の創造を目指しはじめたのは、いはゆる文芸復興からであり、国家も亦、政策として、芸術諸部門の健全な育成を心掛けるに至つたのはいづれも近代国家形成以後と見てよからう。従つて、芸術家の自覚と、国家の配慮とは、緊密な関係をもつものと考へられる。
フランス十七世紀の例をとつてみても、ルイ十四世の国家統一と国威発揚に伴ふ賢明な文化政策の裏面には、宰相リシュリュウの学識と烱眼があつたことは勿論であるが、特に演劇方面に於ける黄金時代の現出には、王自身の趣味によるほか、批評家ボアロオを中心とする劇詩人の真摯な古典主義運動が、演劇の品位と同化力を著しく高め、かつ、王をして何をなし、何をなすべからざるかをはつきり認識せしめ得たことが、大に与つて力あるのである。
しかしながら、ルイ十四世の治下に於ては、まだフランス古典劇は十分に「国民全体」のものになつてはゐなかつた。国立劇場はまだ王室劇場の実質を脱してゐず、年金を与へられてゐる劇作家も亦、庶民のために書くといふよりは、寧ろ宮廷人士を観客として予想したのではないかと思はれる。モリエールの言葉として、「余は[#ここから横組み]“〔honne^tes〕 hommes”[#ここで横組み終わり]のために喜劇を作る」といふ意味の宣言が伝へられてゐるが、〔honne^tes〕 hommes とは、この時代に於て正確に何を指してゐるか私にはわからぬながら、およそ、「素姓正しき人々」のことを云つてゐるらしい。「身分高き人々」ではないことを特に明かにしたもので、その点、モリエールの言葉だけに、多分に時代の風潮を暗示してゐる。序に云へば、モリエールの面白いところは、劇作家としての才能の非凡以外に、王の寵遇にも拘らず、その寵遇の故に却つて自己を赤裸々に発揮し、王の側近たりとも容赦せず、権勢の代表たる貴族と僧侶とに鋭い諷刺の戈を向けたことである。
ここで私は為政者の考慮を煩はしたいことがある。わが国にも嘗てはその例がないわけではないが、かかる諷刺を受けた当の貴族僧侶が、個人的に関係はなささうだといふ理由で、苦笑しながらもその舞台に喝采を送つてゐるといふ図である。わが国の狂言には、低能とも思はれる大名が屡※[#二の字点、1−2−22]登場するが、これは、作者が、殿様と呼ばれる階級の世情に通ぜざることを戯画的に諷刺したものに相違なく、しかも、これらの笑劇は殿様連中の好みに最も適つてゐたのである。見物中に機嫌を損じ、座を蹴る殿様がゐたとすれば、これは益※[#二の字点、1−2−22]誂へ向きの狂言的人物なのである。
要するに、演劇の魅力は、それが何等かの意味で、「自分たちの生活」の再現であり、その中に、新しい自分、かくされてゐた自分、眠つてゐた自分をまざまざと生きた姿に於て発見するといふことである。芸術的陶酔とともに自己浄化、自己反省の機会がここにある。演劇の教化力はかかる意味に於て考へられなければならないのである。
諷刺が侮辱となるのは、作家の精神に不純なものが混入してゐる時であるか、すべての諷刺を侮辱と解するのは、観るものの精神が幼稚であるか、脆弱な証拠である。為政者は如何なる場合にもかかる精神の厳然たる批判者でなければならぬと思ふ。
演劇の主題が直接に政治的、思想的傾向を帯びて来たのは、ヨーロッパに於ては十八世紀のいはゆる啓蒙時代を迎へてからである。
ドイツに於ては、クライスト、シルラア、ゲーテの出現によつて真に国民的なる演劇の根柢が築かれたが、フランスにあつては、社会思想的に劇作家としてこの時代を代表するものはボオマルシェ一人である。しかも、彼は、「フィガロの結婚」の一作によつて、革命の先駆をなしたとさへ云はれる。新興階級の意気と情熱と溌剌たる叡智とを示すこの諷刺喜劇は、作者が王女の音楽教師である関係によつて、王自らの手で公演前の検閲が行はれた。不穏当を理由として却下されること四度、修正には女王も意見を出すといふ念入りな段取りを経て、やつと上演許可になつた。ルイ王朝は既にその影薄く、時代転換の前夜に於ける政治のすがたはまことに常道を逸したものであり、「フィガロ」の公演は、ルイ朝最後の王の為政者としての英断を語ることにはなるまい。この喜劇は、果して民衆の熱狂的歓呼を浴び、社会的動乱の前徴を如実に示した。それはともあれ、フランスに於ける演劇の取り扱はれ方は、ほぼかくの如きものであつた。
ヨーロッパの大国は、それぞれ、首都に王立乃至国立劇場を設け、地方各都市にも、博物館、図書館等と並んで、公設の劇場が建てられてゐるところもある。これは云ふまでもなく、演劇の国家的保護乃至助成を意味し、延いて、民衆の演劇的教養に健全な軌範を与へ、国民文化の粋とするところを普く内外に誇示しようとする意図に出たものである。かのナポレオンが、モスクワ攻撃の陣中、冬将軍の猛威を前にして惨憺たる策戦を練るかたはら、巴里に於ける国立劇場コメディイ・フランセェズに関する新たな勅令を発布したことは、あらゆる点からみて興味のあることであり、「モスクワ条例」と名づけられたこの一片の法文には、文化史的に重要な意義が含まれてゐる。
共和国フランスに於ける演劇政策は、四、五の国立劇場に相当の補助金を交附し、劇場専属の俳優を官吏待遇とし、惜しみなく劇場関係者に勲章を与へ、元老女優で勲一等に叙せられたものも出るくらゐ徹底してゐるやうであるが、なにしろ、既にこの老成国は制度にのみ頼るところがあり、官立の演劇学校はその「伝統」――実は因襲の故に天才を育てることができなくなつてゐるし、投機的性質を帯びた商業劇場の如何はしい上演目録が民衆の人気を浚つても、それは手の施しやうがないのである。とにもかくにも、フランスの演劇政策は現在まで、フランスの政治的性格のもつ長所と弱点とに左右せられ、近代フランス劇の消長は、その演劇政策の如何に拘らず、まさに国民的自覚の大小に比例してゐると云つていい。
ドイツ帝国にあつては、この点、フランスと甚だしく趣を異にしてゐる。ドイツの演劇政策は、フリドリッヒ大王以来、その一般国民的性格を反映して、極めて組織的であり、計画的であつた。元来ドイツ人はフランス人ほどに演劇的ではない。しかし、フランス人よりも演劇的訓練を受けてゐる。ドイツに於ては、演劇が早くから政治の面に結びつき、劇場の多く
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