演劇と政治
岸田國士

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     一 二つの角度

「演劇と政治」といふ題目を与へられたが、私は「演劇」について語り得るほど「政治」について語ることはできない。自然、この一文は、演劇と政治との関係を、「政治」の側からでなく、「演劇」の立場から述べることになると思ふ。
 しかし、「政治」なるものの概念が、近頃では少しづつ「わが国のかくあるべき政治」の概念に引戻されて来たやうであるし、さうなれば、政治技術の面ではともかく、常識としてのわれわれの思考の範囲で、いくらかの意見もたてられるわけである。まして、この新しい、或は正しい政治理念のもとにおいては、国民全体が、それぞれ、大政を翼賛し奉る意味に於て、政府の施策に協力し、その正しき運営を推進するのが今日当然の本分とされてゐるのだから、私が、単に、「演劇人」の資格で「政治」を論ずるだけでなく、国民の一人として、即ち、日本国家の広義の政治活動を僅かながらでも分担しなければならぬ一臣民として、政治機構全体を頭におきながら、「演劇」といふ一分野に眼を注ぐといふこともできなくはないのである。
 ただここに問題となるのは、この二つの異つた角度が、この一文の焦点を極めて曖昧にしさうだといふことである。
「政治」といふ複雑広汎な領域、その対象たる国民生活の全体、軍事、外交、貿易等を含めた国家活動の綜合機構のなかで、「演劇」といふ一文化部門は、そもそもどれほどの位置を占めてゐるであらう。その割合を数字的に示すことはもちろん困難であるが、近代の分化作用が政治の面にあらはれた現象をみても、演劇が演劇として、政治的に重要な課題となつた例は殆どない。常にそれは、風教取締の上の一手段であつたり、都市災害防止の一考慮事項であつたりするに過ぎず、せいぜい、社会教育的見地からする芸術政策の局部的現れとして、時には国家的補助が与へられるくらゐのものであつた。
 ところで、「演劇」の側から「政治」といふものをみると、これはまた常に巨大な圧力であり、その一顰一笑に神経を尖らし、遂には、被害妄想の症状を呈するに至るのであつて、かくの如きは正に、演劇自ら演劇を滅すものである。しかしながら、今日までの実情がこの通りであるとすれば、「演劇」に関係するものの立場から、「政治」に対して何かを求め、演劇自体の発展のために、「政治」の理想を説くといふことは、ややもすれば、陳情の類となり、第三者からは、我田引水のそしりを免れ得ないであらう。なぜなら、演劇について云へることは、多かれ少かれ、その他の芸術全体についても云へることであり、なほ観方によつては、文化機構の全般について、例へば、教育とか宗教とか、出版とか、保健衛生とか、眼に見える或は見えざる現代の風俗とか、悉く、演劇と同様、根本に於て、「かくあるべき政治」との遊離を感ぜしめざるはないのである。そのなかで、演劇のみが特に不遇をならし、しかもほかのことはどうでもいいといふ風な調子で「政治」に呼びかけ、何か優先的に特権を獲ようとしてゐるかの如く見えるからである。
 政治全体が正しく、強力に、少くとも国家の品位と国民の矜りとを基礎として築きあげられなければ、演劇だけがどうなるものでもなく、また、文化領域一般の水準が高まる時でなければ、演劇のみが他のものを後へに健全な発達を遂げるといふやうなことは望み得ないのである。
 かういふ観点から、私は、日本の演劇が、従来の政治と如何なる関係に於て発展し、「新しい政治」が、演劇を如何なる目標へ導くべきかといふこと、更に、演劇そのものは、国民生活の精神的栄養として、日本の繁栄に如何に寄与すべきかといふことなどについて述べてみよう。

     二 封建政治と演劇

 演劇はあらゆる民族のそれぞれの生活形態から独自の表現を生みだしたと云へるが、その発生の起源は凡て宗教的行事と結びついたものとされてゐる。従つて、古代希臘の如き都市国家の政治は、民衆の集団生活に向つて多くの注意が払はれ、単に宗教がその生活の中に於て占めてゐる領域が大きいといふ理由からだけでなく、祭典的な催しは一種行政的企画の相貌を呈してゐるやうにみえる。かういふ国家にあつては、勢ひ、祭典の重要な部分としての演劇公演も、単に、当局の「取締」といふやうな形で政治の手がこれに伸びてはゐない。それは既に「利用」ですらもないのである。
 これに反して、中世以降の欧洲各国では、やうやく、封建的な専制政治が軌道に乗りはじめ、王侯の権力と民衆の神話とが縁を切り、社会的階級が上下共通の生活と感情とを絶滅させた。かかる時代に於て、演劇は民衆の被治者としての心理を反映し、政治が民衆の欲求を制限すればするほど、演劇は反撥し、ふて腐れ、卑屈となつた。
 たまたま、演劇を愛する王侯によつて、作家、俳優などの一部が個人的な好遇を受け、そのことが演劇の隆昌と錬磨に役立つたことはあるけれども、今日から見れば、それは決して演劇そのものの本質的向上を齎したとは信じられない。ある意味に於ける演劇の不健全性がそこに胚胎してゐるからである。モリエールの如き大作家ですら、その作品の多くにいくらかの媚態と有閑性をのぞかせてゐるではないか。
 一般に演劇に加へられる非難は、当時から既に各所に現はれてゐた。主として、宗教の立場からであつたが、それは必ずしも演劇が嘗て密接な関係にあつた宗教から離れ、その教義を無視し、その風習に従はないといふ理由からだけではなく、権勢と結びついた聖職者のいくぶん偽善的な趣味と、演劇自体のもつ可なり露悪的な傾向との摩擦であつた。俳優は、次第に、社会から特別な眼をもつて視られるやうになつた。愛されつつ軽んぜられるといふ結果は、俳優にも世間にも罪はあつたが、主として、政治的権力がこれを遇するその方法に大半の罪があつたと云へるであらう。
 わが国に於ては、能狂言が主として貴族乃至武家階級の、歌舞伎が主として民衆の生活を地盤として発展し、今日の内容と形式が整へられたことは周知の事実である。
 能楽は文字通り権勢の庇護の下に育成され、比較的高い教養と洗錬された趣味を反映し、指導階級としての威信と自己批判とに常に応へつつ、あの荘重、幽玄、高雅、鷹揚、闊達、といふやうな雰囲気を創造するに至つたのであるが、歌舞伎に至つては、世態人情の詩的な描写と、庶民道徳の熱烈な鼓吹とが、卑近ではあるが巧緻を極めた舞台技術と相俟つて渾然たる劇的美を確立するに至つたとは云へ、その美の要素たるや、あくまでも、封建治下に於ける市井人の生活感情に根ざし、侠気、意地、忍従、犠牲、隠遁、復讐、などの心理的色調を主とすることによつても察せられる通り、厳粛だとすれば苛酷に過ぎ、倫理的だとすれば普遍性を欠き、その優雅繊細も、豪快洒脱も、常にどことなく反抗と見栄と耽溺とを気分としてのぞかせてゐることは争はれない。
 歌舞伎はもとより民衆の慰楽として生れた。民衆の求めるもの、民衆の手によつて作り得るもののすべてが、概ね何らかの形でそこに盛られてゐた。幕府政治が、よし下層民衆を無力視してゐたにもせよ、社会現象としての都市演劇の動向に無関心な筈はなかつた。演劇に対する多くの禁令がこれを証明してゐる。禁令そのものは、もちろん、行政的処置の一端を示すにすぎないが、かかる禁令を発するに至つた動機は、その当否は別として、その時代に於ける演劇の実情と為政者の演劇なるものに対する根本態度とを窺ふに足るものだと思ふ。
 先づ日本演劇の起源と発達の径路とをたづね、この間に於ける政治との交渉を詳さに調べて見ることは、今日の演劇の在り方を理解するひとつの道に違ひないけれども、それはこの小論の企て及ばないところである。従つて、ごくおほざつぱに、演劇史上の記録を拾つてみることにする。
 平安朝の末から鎌倉時代にかけて、田楽と呼ばれる演芸(田植の時に農村で行はれた慰安行事がもとの起りで、これが神事や仏事の余興として広く用ひられるやうになつた)がわが国に於ける演劇の最も原始的なものであるが、北条高時はこれを非常に愛好し、特別な庇護を加へ、自らも舞台に立つといふ熱心ぶりであつたと伝へられる。当時、京都の四条河原に大仕掛の勧進田楽が催され、観衆が殺到して遂に桟敷が落ち、多数の死傷者を出した。劇場施設に対する為政者の注意が恐らくこの頃から払はれたらうと推察される。田楽と前後して、猿楽なるものの発達をみた。これは今日の能楽の前身とも云ふべきもので、大和春日神社の御事を勤めてゐた猿楽四座のうち、観世家は特にその道の天才を生んだが、将軍足利義満の保護によつて内容形式ともに整つた芸術にまで成長したのである。かうして猿楽は室町将軍家の式楽に採用され、遂に貴族武家階級の専用娯楽となつたことは注目に値する。
 猿楽はもと滑稽な所作、猥雑な筋を演ずるものであつたが、貴族武家の生活、趣味に合致するやう次第に洗錬を経たのであつて、その間、一は能の厳粛典雅な悲劇的典型と、一は滑稽洒脱な狂言の喜劇的典型とに分れて今日に及んだのである。
 豊臣秀吉の時代には、京の四条河原附近には、諸種の演芸興行物の集中をみた。慶長年間、出雲大社の巫女阿国が歌舞伎踊を演じたのが近世歌舞伎劇の起源だとされてゐる。この歌舞伎踊はまだ劇の形式に整へられてゐなかつたが、とにかく、その人気は日本全国に及び、見物の群衆が殺気立つて刃傷沙汰まで惹き起したので、遂に、寛永の中頃、法令によつて厳禁されたといふ記録がある。
 女歌舞伎禁令後に栄えたのは、美少年を主役とする若衆歌舞伎である。これがまた同様に俗衆の好みに投じ、弊害も自ら生じたので、一度は禁止といふことになつたが、法の力を以てしても到底抑へることができず、いつか禁が解かれて、京、大阪、江戸に、それぞれいくつかの劇場が開かれた。多くは遊里を題材としたもので、わが歌舞伎劇の色調は既にこの頃から顕著となつた。
 将軍義政の頃、浄瑠璃節といふのが起り、永禄年間三味線が渡来すると同時に、この二者が合体し、更に、慶長に入つて、操り人形の発達と共に、浄瑠璃操りの発生をみたのであるが、これと既に演劇としての形態を整へてゐた歌舞伎との交流が今日の歌舞伎劇なのであつて、近松門左衛門はこの機運を作つた偉大な先駆者である。
 徳川期は既に歌舞伎劇の完成時代である。元禄年間では、歌舞伎は主として傾城何々と題する遊里趣味のものか、然らざるものも、遊女を登場せしめなければ見物が承知せぬといふ風潮であつた。
 元禄時代は内外ともに平穏無事な時代、即ち幕府の基礎は確立し、鎖国によつて対外関係は小康を保ち、江戸の殷盛は経済的にも一種の好景気を齎した時代であつた。かかる平和は勢ひ民心を弛緩せしめずにはおかぬ。いはゆる元禄の華美な風俗を生み、士道は地に落ち、仇討がすたれて心中が流行するといふやうな現象が目立つてゐる。
 若衆歌舞伎が禁止されたのは少し遡つて承応元年のことであるが、それ以来、演劇的興行に対する政令の干渉は、殆ど枚挙する遑がないくらゐである。
 参考のためにその主なるものを挙げてみよう。

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明暦元年五月――「跡々より御法度の通り、狂言尽し(俳優のこと)大名屋敷方へ呼候共伺公仕りまじく、衣裳結構なるもの着せまじく、其の上、「人多に奢りたる狂言仕りまじく」「狂言尽しの者、仮令一両人御屋敷方へ呼候共、罷越し、島原の真似(傾城買ひのこと)仕るまじく」云々。
同、四年正月――女方の鬘及附け髪を用ふることを禁止、諸芝居へ島原狂言を仕組み、傾城の真似する
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