対抗し、時代の要求に副つた純粋な舞台芸術を創り出さうとした意図が、社会からは十分に酬いられるところなく、更に大いなる時代転換を前にして、もはや過去の歴史とならうとしてゐるのである。
四 国力としての演劇
以上述べたやうに、あらゆる近代国家が、その政策として、演劇の保護助成を目的とするなにらかの方針を示し、演劇の質的向上をもつて、国民の精神生活の培養を心がけ、一方文明国としての矜持を示さうとしたことは、殆ど共通の傾向であつた。
しかしながら、わが国に於ては、やうやく最近の数年間に於て、行政的に演劇の改善及び利用といふことが官庁の一部で考慮せられるやうになつたのである。国家が「政策として」演劇の問題を取上げるのと、行政官庁がこれを「所管事項として」取扱ふのとは、趣旨は同じでも、その影響と効果とに雲泥の差がある。形式を云々するのではない、事実を云ふのである。さういふ意味から云へば、わが国の現状は、まだ演劇そのものを国力の一部として、為政者が十分認識してゐないとも云へるし、わが演劇自体もまた、今日まで真に国民生活の強化に役立つてゐたかどうか甚だ疑はしい。
そもそも国の力といふものは、いろいろな要素から成つてをり、様々な形で現はれて来るものである。戦争に勝つことは、むろん国力の強大を意味するけれども、同じ勝ち方にもいろいろある。有効に、確実に、そしてきれいに勝たなければ、ほんたうに勝つたとは云へないのである。これが日本の目指す勝利であり、この勝利なくしては、日本の理想に到達することの困難であることを、われわれは肝に銘じてゐるのである。
総力戦の意味は、軍事力と並行して国家活動のあらゆる分野、国民生活の全領域を、かかる「立派な勝利」の獲得に向つて、整備動員することであり、そのためには、これに応ずる国内の秩序と組織とが当然必要とされるのである。政治、経済、文化といふ風に、誰が分けたかは知らぬが、いはゆる新体制の呼び声とともに、かういふ国内機構の区分法が公に採用せられ、文化機構なるものが、危く政治と経済の両面から遮断せられようとした。現実の問題としてはさうはいかぬが、観念的に別個のものとされたところに、新体制運動の不統一性がその出発点に於てすでにあつたと云へる。
文化機構は決して政治や経済の機構と別々に存在するものではなく、その間、専門的にみれば一応看板は違ふかも知れぬが、常に有機的な関連をもつばかりでなく、現実に、如何なる文化部門の職域機構も、政治の対象とならないものはなく、また経済活動を営まないものはないのである。これは相互に同じことが云へるのであつて、例へば経済面から貯蓄運動といふものが考へられる。この運動は国民精神の昂揚に俟たねばならぬ。そればかりではない。消費生活の技術的工夫によつて一層効果を挙げ得るであらう。従つて、娯楽とか休養とか、身嗜みとか知識の涵養とかいふ問題を無視することはできぬ。否寧ろさういふ点が解決されなければ、絶対に永続的な貯金運動は不可能である。さうなると、貯金運動は先づ文化運動の形で進められるのが最も適当だといふことになる。わざと逆説を弄するわけではない。政治や経済を文化から引離さうとする指導者たちの注意を喚起するために、「文化」といふものの「在り方」を説明したまでである。
そこで、文化機構の整備統制は、先づ、少くとも、文化機構の全貌を把握し、これを一元的に企画運営し得る政治機関を必要とする。政治機関なるが故に、行政機関の如く、自己の所管に没頭することなく、十分に、戦局の推移と国内経済の事情を考慮に入れ、官庁予算といふが如き形式でなく、重点的に、重要文化問題の解決に必要な国費を充当する。もちろん、これに伴ふ民間の資力も活用すべきである。
一方、民間のあらゆる文化職能人は、自主的に先づ専門別の統合団体を結成し、更に、これを横に連結する協力態勢を整へる。専門別の統合団体のみでは、必要な活動はできないのみならず、いはゆる専門割拠主義の弊に陥つて、文化陣営の歩調が揃はぬこと明白である。
芸術部門だけについて考へれば、文学、美術、音楽、演劇、映画と大別することができるが、この五部門の有機的交流と相互協力の実を挙げるところから、現代日本の芸術維新が生れ、芸術家の文化戦士たる資質が錬磨されるのである。このことを詳述する暇はないが、これは決して、一個人が、文学にも美術にも音楽にも、その他何れにも趣味をもつといふやうなこととは断じて同じでない。
芸術の制作或は芸術品の普及頒布を業とするものが、自己の利益を擁護するためでなく、真に、戦ふ国民としての自覚と、力強き芸術への愛によつて結びつき、それぞれ専門の領域に於て全能を尽すといふことは、結局、他の専門部門の停頓萎靡を黙視し得ざることであり、また、その最高のものに熱烈な拍手を送ることでもある。常に共に進み、常に共に励まし、常に相倚り相扶けるといふ精神こそ、新しい団体の精神でなければならぬ。個人主義を批難するものが屡※[#二の字点、1−2−22]団体利己主義の虜となつてゐる今日の現象は甚だ憂ふべきである。
演劇の部門に於ける新団体の結成も、徐々にその機運をのぞかせてゐるが、演劇人並に演劇関係者の厳しい自己反省から先づ出発しなければならぬ。国運を賭してのこの戦ひに臨んで、演劇は正に一死報国を期して起ち上るべきだ。それはつまり、過去の演劇の「肉体」はここで天に返すといふ覚悟が必要だと思ふ。あまりに比喩的だといふならば、もつと明らさまに云はう。先づ、既成の演劇機構は、それぞれの歴史と功罪とをもつてゐるが、この際、自発的に一応解体して全く新しい発足を企てることが急務である。日本演劇の伝統精神は、かかる解体によつて消滅はしない。却つて、現在の真面目な指導者が、腐敗した機構のなかで、真の演劇精神を生かさうとしてゐる無駄な努力がはぶけるだけである。機構といふものは、条文によつて作られてゐるのではなく、人そのものによつて作られてゐることを忘れてはならぬが、一層正確に云へば、人の組合せによつて作られてゐるのである。
今日の演劇人及び演劇関係者は、その職能及び職域を通じ、国家総力戦にどれだけの力を捧げてゐるかといふと、それは百パーセントであるべきだが、どう見てもさうは云へない。力の出し惜しみといふよりは、力の入れどころの誤りからさういふ結果が生じる。これを結合し、方向づけるものがないからである。
戦争の完全な勝利と、国家の永久の繁栄のために、日本演劇の今日以後の在り方を、演劇人及び演劇関係者自らはつきり認識し、万難を排して自分自身をそこへ持つて行くといふことが、何よりも大きな政治への協力であり、政治の推進である。
底本:「岸田國士全集26」岩波書店
1991(平成3)年10月8日発行
底本の親本:「演劇と文化(『演劇論』第四巻)」河出書房
1942(昭和17)年11月20日発行
初出:「演劇と文化(『演劇論』第四巻)」河出書房
1942(昭和17)年11月20日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2010年3月1日作成
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