ほかに変つたものは……?
男 これだけです。さあ、どつちでも……。(頻りに後ろを振り返り、不安な様子を見せる)いらないんですか。
底野 もう少し考へませう。
男 勝手にしやがれ。(さう捨白を残して、逃げるやうに立ち去る)
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底野、あつけに取られ、元の位置に帰り、ごろりと寝転がる。
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底野 勝手にしやがれ。云はれなくてもさうするより外はないが、あゝいふ人間を作つたのも、かういふ人間を生んだのも、これ、もともと人間の罪だ。征露丸を押売りするのも、それが買へないで、つまらんお喋舌をするのも、国を思ふ同胞の浅ましい姿だ。おや、何時の間にか飛田の調子が出て来やがつた。寝起きを倶《とも》にするつていふのは恐ろしいもんだ。
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この時、飛田が、洋服を泥だらけにして帰つて来る。
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飛田 やあ、今日は、ひどい目にあつたよ。
底野 どうしたんだい、その洋服の柄は?
飛田 危く貨物自動車に轢き殺されるところだつた。側に溝《どぶ》がなかつたらおしまひさ。
底野 犬も歩けば溝に落ちるか。
飛田 癈兵は寝て待て! こん畜生。
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三
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その翌朝、底野と飛田とは、何やら朝食らしいものを終つて、互に悄気きつた顔を見合つてゐる。
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底野 瘠せたよ、トンビ、貴様も。
飛田 その眼玉の黄色いのは、やい、カマボコ、只事ぢやないぞ。栄養不良から来る黄痘だ。
底野 貴様はたまに外で何か食ふから、栄養佳良だとでも云ふのか。なんでもいゝ。せめて、たまに散歩ぐらゐはせんと、これで、下駄にだつて気まりが悪いや。
飛田 ほんとに、少しは外の空気を吸へよ。折角あんなにあるんだからさ。金のかゝらんもんていふのは、当節、めつたにありやせんぜ。第一、家の中にばかりゐちや、幸運はともかく、自然の恩恵を無にするも同然だ。場所は選ばれた郊外だ。季節は春秋と限つてはゐない。冬の武蔵野は、葉の落ちつくした榎の木立に、昔ながらの詩があるのだ。
底野 よせやい、詩を作るなあ。さうまでしなくつたつて、おれや、出掛けるよ。巻煙草の長い喫ひさしでも拾や、損得なしだ。
飛田 おれは、今日は休むよ。家にゐるよ。
底野 人聞きのいゝことを云つてやがらあ。何処を休むんだい。家にゐたつて誰も心配しやしないよ。変な棒つ杭にぶつからないだけでも安全だ。
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かう云ひ捨てゝ、底野は表の方へ出て行く。
飛田は、昨日まで底野がやつてゐたやうに、座蒲団を二枚並べ、その上に寝ころがる。
やがて、彼は起き上る。どうも寝心地がよくないと見えて、いろいろ寝返りを打つてみる。また起き上る。部屋の中を歩きまはる。しかし、思ひ切つて、また寝ころんでみる。
この時、障子の間から、一羽の小鳥が部屋の中に飛び込んで来る。彼は、それを眼で追つてゐるが、やがて起ち上つて、一隅に追ひつめ、そつと両手で捕へる。
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飛田 これや、鶯だ。何処から飛んで来たんだらう。
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彼はさう云ひながら、勝手から目笊を持つて来て畳の上へふせる。
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飛田 鳴いてみろ、こら。ホヽホヽホケキヨ。ホヽヽヽホケキヨ。かういふ風に鳴いてみな。駄目だ、こいつはまだ学校へ行つてねえや。
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そこで、鶯のことは忘れたやうに、また寝ころがつてゐる。
しばらくすると、鴬は、巧みな声で、一と声鳴いてみせる。
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飛田 おや、今頃鳴いたな。学校へ行かないつて云はれて、むつとしたな。よしよし、もうそれでいゝ。あんまり鳴くと、今度は、商売人上りだつて云はれるぞ。
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鶯は、また、一と声、続いて二た声、三声、鳴き続ける。
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飛田 よし、わかつた、わかつた。いゝ喉だよ、お前は。おれは、今、折角家の中にゐるんだ。梅林ん中を歩いてるやうな気持にさせてくれるな。
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鶯は、なほ鳴き止まない。
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飛田 よせつたら、よさないか。聴きたくないときは、ガリクルチでも聴きたくないんだ。ぢや、もう、出てつてくれ。帰つてくれ。伊太利へでも何処へでも飛んでつてくれ。
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さう云ひつゝ、目笊を開けようとする途端、表に声がする。――『御免』
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飛田 (目笊をそのまゝにして、玄関へ出る)どうぞ。
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宗匠風の、又はそれを気取つた老人がはひつて来る。
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老人 突然、誠に失礼ですが、お宅では、鶯を飼つておいでになりますでせうか。
飛田 (驚いて)はあ、いゝえ、実は、今、そこにゐましたら、外から部屋ん中へ飛び込んで来たもんですから、つかまへて目笊に伏せといたんです。
老人 それでは、ちよつと、そいつを拝見さしていたゞけませんでせうか。実は、只今、餌をやつてをりますと、何に驚いたのか、いきなり籠から飛び出しまして、なんでもこちらの方角へ飛んで参つたんです。不断、非常に手前には馴れてをりますし、そんなことは決してなかつたんですが、どうしたものですか、今日に限つて……。
飛田 あゝ、さうですか。それは御心配でしたらう。今、鳴いたのをお聴きになつたんですね。
老人 えゝ、それがもう鳴き声を聴きましたゞけで、それといふことはわかりはいたしますんですが、いきなりさう申上げるのも失礼と思ひまして……。
飛田 いや、もう僕の方は、そんなに遠慮をしていたゞかなくつても、どうせ誰かに持つてつて貰ひたいくらゐですから……。
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老人と飛田とは協力して目笊から籠に鶯を移す。
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老人 どうも、誠に有りがたう。これでどうして、その道の人にかゝつたら、この鶯、わたしの手には戻りません。これでも、人はなんと申しますか、わたしとして一番丹誠をしてこゝまでにした鳥ですから、今逃げられては浮ばれませんや。去年の品評会には、お蔭で一等を取りましてな。あなたのお人柄を見込んで申上げるんですが、これで時価三百円といふ代物です。やあ、どうも、ほんとに助かりました。何れ改めてお礼に何ひますが、わたしは、あの原の向うにをります宇部と申す隠居でございます。
飛田 (なんと返事のしやうもなく、たゞ、相手の一言々々に頭を下げてゐる)
老人 では、御免下さい。お宅には二つ表札が出てをりますやうですが、あなたは……。
飛田 僕、飛田の方です。
老人 はあ、トビタとお読ませになりますか。なるほど、や、それでは……。
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老人去る。
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飛田 (再び座に帰り)三百円か。えらい鶯もあればあるもんだなあ。あの鳥が紙幣《さつ》かなんかなら、一寸悪心を起すところだ。やれやれ、紙幣《さつ》に羽根が生えたとはこのことを云ふんぢやないかな。
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そこへ底野がぶらりと帰つて来る。
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底野 やつぱり外は、広すぎて落ちつかん。木ならば鉋をかけた木でなけれやおれの性に合はん。
飛田 カマボコの称ある所以だ。中学で羽目板の前に立たされたことが、抑も貴様の一生を決定したんだ。
底野 おい、トンビ、兄貴のどれかにさう云つてやつて、また五円ばかり送らせろよ。おれの方は、月末まで、まだ三週間以上間があるぜ。
飛田 惜しい話をしてやらうか。おれは、さつき三百円つていふ……ものをだよ、この手の中に握つたんだ。
底野 巫山戯《ふざけ》るない。出してみろ。
飛田 それが、もうないんだ。人が持つてつた。
底野 なんだい、一体、そのものつていふのは……。
飛田 鳥だ。
底野 三百円の鳥? 手の中へ握つた? 夢かい。
飛田 夢でも幻でもない。なるほど、あの声を聴いた時、これは曲者だと思つたよ。日本一の名鶯《めいあう》だ。
底野 メイオー? オーは……。
飛田 鶯だ。
底野 それが?
飛田 そこから、かうだ。それで、これだ。(外から飛び込んで来て、それを捕へた有様を手つきで示す)
底野 それで、これとは?(指を三本出してみせる)
飛田 これが、かう、かう、かう、かうさ。(老人が来て、見て、受け取つて、帰つたといふ恰好をする)
底野 なんだい、わからん。
飛田 飼主が、声を聞きつけて、受け取りに来たんだ。
底野 無条件で渡したのか?
飛田 条件はつまり、その、糞なんかたれないうちに持つてつて貰ふといふだけさ。
底野 だから貴様は、外へ出てろだ。
飛田 そいぢや、カマボコだつたら、どんな条件をつける。
底野 三百円の代物なら、一割乃至二割は謝礼として要求するさ。
飛田 さういふものとは知らず、いきなり、さあさあお持ち帰りをと云つた場合は……?
底野 渡してからでも遅くない。
飛田 しかし、こつちからは、そんな態度を見せない方が奥床しいよ。堂々としてるよ。
底野 いくら言ふことが堂々としてゝも、その扮《な》りぢや人が信用しないよ。却つて、奇麗なことを云ふ方が、物欲しさうだよ。坊主にお経料を訊ねると、へゝお思召でといふやうなもんだ。
飛田 おれは、おれのやつたことを後悔してない。現に、なんにも云はないのに、何れお礼に伺ふと云つてた。
底野 そんなことが当てになるかい。温泉場で玉突の相手をした男だつて、東京へお帰りになつたら是非お遊びになんて云ふよ。
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その時、表で、若い女の声。――『御免遊ばせ。』
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底野 (飛び上るやうに)来たぞ。
飛田 (落ちついて)取次げ。
底野 (玄関に出る)どなた様で……。
女 (丁寧にお辞儀をして)わたくし、原の向うの宇部から使に参つたものでございますが。
底野 あ、あの、鶯の……?
女 さやうでございます。あの、飛田さまとおつしやる方は、只今……。先程、主人が伺ひました節、お目にかゝりましたさうでございますが……。
底野 あ、それならをります。(飛田の方に眼くばせをする)実は、わたくしです。先程は失礼しました。わざわざ、どうも御丁寧に……。
女 それにつきまして、主人が自分で出向きます筈でございますが、却つて業々しく思召すといけませんので、大変失礼でございますが、これを、ほんのお礼のしるしに差上げて参れといふ申附けでございます。どうかお納め下さいまして……。
底野 なんですか、どうも、そんなことをしていたゞくわけはないんですが……いや、折角のなんですから、なにいたしますが、このまゝ、なんですか、なにしてかまひませんか。
女 はあ、どうぞ……。ではごめん遊ばしませ。
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女、去る。
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底野 (奉書に包んだものを飛田の前で開く)
飛田 おれに開けさせろ。
底野 (そばから紙幣を数へ)一、二、三、四、五……。もう一枚ないか。
飛田 ない。
底野
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