運を主義にまかす男
岸田國士

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)底野《そこの》

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底野(又はカマボコ)
飛田(又はトンビ)
こよ  以前の下宿の娘
口髭を生やした行商人
癈兵と称する押売
鶯を飼ふ老人
宇部家の小間使
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     一

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底野《そこの》、飛田《とびた》の両人が共同で借りてゐる郊外の小住宅。座敷と茶の間の外に玄関。
男ばかりの暮しが、家の中全体を殺風景にしてゐるが、それだけ伸々とした空気が、何処かに漂つてゐる。
底野(二十八)が、薄つぺらな座蒲団を二枚並べ、その上に寝転んで古雑誌かなにかを読んでゐる。これは、ある大学を中途で止め、郷里にはそれを黙つてゐて送金だけを受けてゐたが、学校を卒業する筈の年が容赦なく来てしまひ、もう一年落第したことにしようと思つたのに、親父の方が先手を打つて、今年限り学費は出さぬ、その代り就職口がみつかるまで、月々二十円づゝ生活費のたしを送るから、あとはどうかしてそつちで都合をしろと宣告して来たのである。それでも、ぶらぶらしてゐて月々二十円貰へば、無理をして仕事の口を見つけ、朝から晩までからだを縛られてゐるよりはましだと考へ、こゝ二年間、世間一般の就職難を口実として、毎日、かうして寝転んでゐるのである。
相棒の飛田(二十七)とは学校の同窓で、しかも、以前、同じ下宿にゐたといふ関係から、自然、肝胆相照す間柄となり、飛田が卒業後或会社に傭はれる幸運を得た機会に、最も経済的にして且つ衛生的と称する郊外の自炊生活を始めたのであるが、飛田も亦、僅か数ヶ月にして、会社から爾後出社に及ばざる旨の通知に接し、百方運動を試みた甲斐もなく、之に代る椅子を贏ち得ずして今日に及んでゐる。しかしながら、彼飛田は底野と違ひ、生れつきの苦労性で、これまた情を訴へれば二人の兄と二人の姉から月にそれぞれ五円や三円づゝ小遣はせびれる身分でありながら、それだけでは決して満足せず、ひたすら好機会を外に求めて、毎日西東と駈け廻つてゐる。
さて、今日も、昨日の如く、底野は『果報は寝て待て』主義を、飛田は『犬も歩けば棒に当る』主義を実行してゐる。
玄関の戸があき、大きな手提鞄を提げた紳士風の男がはひつて来る。
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男  御免。
底野  (寝転んだまゝ)どなた?
男  奥さんはいらつしやいますか。
底野  まだをりません。
男  では、失礼ですが、御主人にちよつと……。
底野  どうぞお上り下さい。
男  いや、こゝで結構です。
底野  どういふ御用ですか。
男  実は、わたくしは、かういふものでございますが……。(名刺を出す)
底野  口で云つて下さい。
男  はい。名前を申上げても、無論、御存じないわけでございますが、実は、わたくし、もと満鉄に勤めてをりましたもので、故あつて最近職を退きましたにつきましては……。
底野  就職のことなら、ちよつと心当りはありませんがね。
男  いえ、さういふわけではございませんのですが、その、突然のことでもあり、家に蓄へはございませず、子供は五人、これがまた至つて幼少でございまして、前途甚だ不安を感じますやうな次第で……。
底野  僕のところでは、誰にも一切寄附はしない、満洲軍にさへ町内の慰問資金を断つたくらゐですから……。
男  いやいや、決して寄附施しの類《たぐ》ひをお願ひしに参つたのではございません。実は、さういふ次第で、わたくしもまだ老齢と申すには間がございますのを幸ひ、大いに勇を鼓して、断然、街頭に進出する決心をいたしました。それにつきましては、何か他人の気附かない職業、またその職業の種類は同じでも、何処か一点特色のある内容を選ぼうと思ひまして、いろいろ苦心いたしました結果……。
底野  名案がありましたか。
男  と申しますのは、世間普通に行はれてをります行商にいたしましても、やれ文房具であるとか、売薬の類であるとか、これは一向珍しくございません。わたくしが伺ひます一時間前に、他のものが伺つてゐるかもわかりません。これでは労して益のない道理でございます。
底野  僕のところは、かう見えて、なんでも揃つてますから、今、差し当り欲しいものはないんですがね。
男  ちよつとお待ち願ひます。そこで、わたくしは考へましたんでございます。これはひとつ、他の行商人が持つて歩かないもの、殊に、皆様が御近所では容易にお手にはひらないもの、或はまた、形は同じでも質の違ふもの、値段がお安くて品がよいもの、かういふ按配に目先を変へて一軒一軒をお邪魔して歩きましたら、また、その宅次第ではお目に止るものがありはしまいか、なるほど、かういふものは買つておいて損はない、これは珍しいから誰それさんにも分けてあげよう……。
底野  もしもし、それでわかりましたがね、生憎、僕の家にゐる男が、やはり君のやうな思ひつきを、今実行してゐるんですよ。こいつが、大概のものを持つてますからね、わざわざほかから買ふ必要がないんだ。
男  お言葉でございますが、人それぞれの頭は、働き方が違ひまして……。
底野  ところが、そいつと来たら、言ふことが君と同じでしてね。頭の働きもよく似てるんだ。
男  はゝゝゝゝ御戯談でせう。わたくしは、元来、生ひ立ちから申しまして、多少人様と違つたところがございますし、決して、人様の真似や、人様から真似られるやうなことは……。
底野  それさ、君、その男といふのが、実にまた人と違つたとこがあつてね。
男  それはさうでございませう。ですが、甚だ勝手をお許し願へれば、ひとつ、そのお方のお持ちになる品と、わたくしの持参いたしました品とをお比べ下さいまし。恐らくどれひとつ同じものはございますまい。
底野  さあ、そんなら、君は何と何を持つてゐるの。
男  有りがたうございます。恐れ入りますが、これをちよいと御覧願ひまして……。
底野  見なくつても、品物の名前だけを云つて見給へ。
男  畏こまりました。えゝ、これが、その、当節問題になつてをります『まむしの丸薬』……。
底野  あゝ、それはあつたよ。
男  しかし、この品は、信州伊那の里から直接取り寄せました純粋混ぜものなしの……。
底野  ところで、そいつは、何に効《き》くの。
男  老若男女、これを用ひまして、精力の衰ふるを知らず……。
底野  あ、それや、駄目だ。そんなものを飲んでこの上精力なんかつかれちや堪らないよ。なんとかしてそいつを散じようと心掛けてるくらゐだ。
男  では、その方は御用がないとして、この胚芽から取りました消化薬……。ヂヤスターゼなどより遥かに……。
底野  おい、おい、馬鹿云つちや困るよ、君。たゞでさへ食つたものが腹へ溜らなくて始末に悪いんだ。よしてくれ、そんなもの……。話を聞くだけで胃がキユウキユウ鳴りだした。
男  それでは、この完全燃焼を特長とする小粒煉炭……。
底野  火の気は一切禁物だ。
男  では、この、毛織物に特効ある虫よけ香錠……。
底野  そいつは、質屋の方へ持つてつといてくれ。
男  最後に、卸値段の精選脱脂綿、薬局でお求めになるより四割方お徳用……。
底野  折角だが、女が一人もゐないんでね。
男  (荷物を片づけ)どうもお邪魔いたしました。またどうぞ、御用の節は……。
底野  寝たまゝ失敬。(さう云つて、また雑誌を読み続ける)

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やがて、また、今度は勝手口から、若い女の声で『御免下さい、御免なさいまし』
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底野  (元気よく起き上り)おはひんなさい。どなた?
女の声  あたしよ。
底野  あたしつて誰だい。あたしぢや多勢ゐてわからねえや。まあ、どのあたしでもいゝからおあがりよ。

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若い下町風の娘がはひつてくる。前の下宿の娘こよ(十九)である。
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こよ  (軽く手をついて)こんちは……今日はお一人?
底野  一人だつていゝぢやないか。奇麗になつたね。
こよ  奇麗になつたつていゝぢやないの。
底野  それや無論、悪いた云はないさ。どうだい、家は相変らずかい。
こよ  えゝ。あんたんとこは?(あたりを見廻し)この前より落ちついて来たわね。
底野  (これもその辺を見廻し)どの辺が? 板津や神谷はまだゐるかい。
こよ  えゝ、神谷さんは、この春奥さんを貰ふんですつて。今、家を探してるわ。
底野  板津は、やつぱり下宿代を溜めてるかい。
こよ  ふゝん、どうだか……。人のことなんかなんだつていゝから、あんた、どうかしなさいよ。あたし、いやだわ、こんなこと、しよつちゆう云ひに来るの。母さん、怒つてゝよ。それや嘘だけど、ほんとに少しづゝでもいゝからつて云つてるわよ。家から来るんでせう。
底野  二十円づゝ来るには来るよ。そのうちをどうかしろつていふのかい。虫がよすぎるぜ。
こよ  あら、そつちこそだわ。二十円がさ、こんな風にしてゝ何にかゝるの。
底野  おい、失敬なこと云ふない。斬髪だつてチツプを含めれや一円はかゝるぜ。
こよ  その頭、何時刈つたのさ。
底野  忘れるくらゐ度々刈つてらあ。時に片岡千恵蔵は見に行くかい。
こよ  えゝ、ついこなひだ、あれ見たわ、なんだつけ……。
底野  そいぢや、この秋のリーグ戦は、誰かに切符貰つた?
こよ  何処だつて、大抵手にはひるわ。二枚はむづかしいけど……。
底野  おれも、この夏から月給取りだぜ。いま人にや云へないが、ある三井系の会社だ。七十円だけど、初めにしちやいゝだらう。
こよ  ほんと、それ? 出鱈目でせう。
底野  いゝよ、さう思ふなら……。君さへよけれや、おれや、一生、貧乏してゝやる。
こよ  ちよいと、あたし、喉が渇いちやつたわ。
底野  井戸の水は、自慢なんだがなあ、尤もそいつあ大家の話なんだけど……。
こよ  家賃ちやんと払つてる?
底野  ちやんと払つたら、かうして生きちやゐられんね。
こよ  そんなこつたらうと思つた。(起つて水を飲みに行く)
底野  おれにも一杯頼むぜ。茶碗がそこにあるだらう。君の飲んだあと、洗はなくていゝや。だが、いゝなあ、かうしてたまに君と話をするなあ……。なあ、おい、こよちやん、時々、なんべんも来てくれよ。誰かの煙草を買ひに行く時、ちよつと電車へ乗つちまへばいゝんじやないか。

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こよ現れる。茶碗に水をいれて来る。
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底野  ありがたう。なるほどうまい水だ。これで少し砂糖でもはひつてると申分はないんだが……。あゝ、さうだ、こよちやん、こんど来たとき返すから、朝日一つ買つて来てくれよ。君だつて、もう一二本は喫つてもいゝ年頃だぜ。君のその口元でさ、歯の間にちよつぴり煙草のやにをくつゝけてるなんて、絵にだつてありやしないぜ。よう、買つて来てくれつてば……。
こよ  だつて、あたし、今日は往復の電車賃きり貰つて来ないんですもの。ちよいと、火鉢に火もないの。
底野  ぢや、帰りの分は落したつて、歩いてけばいゝぢやないか。
こよ  こつから神田まで……? 一体、どれくらゐあるの、十里ぐらゐあつて……?
底野  馬鹿云つてらあ。電車で市内とも三十分ぢやないか。三十分つて云や、普通の足で一里足らずだ。
こよ  さうを。そんなゝの? でも、一里歩くのいやだわ。あたし、近頃、少し歩くと(左の胸をおさへ)こゝがどきどきして、なかなかとまんないのよ。
底野  年頃になれば誰だつてさうだよ。おれだつて、もう五六年前までは、さういふ風だつたよ。何処か外へ出ると、帰つて来るまで呼吸《いき》が苦し
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