いんだ。帰つて来てからでも、暫くは、誰とも口を利くのがいやだ。一人でぢつと空を見たり、空が暗ければ、畳の上の焼こげを見つめて、大きな溜息を吐《つ》いたもんだ。あれや、しかし、苦しいもんだけど、また、なんとなく、楽しいもんだ。
こよ  あら、そんなのとは、また違ふのよ。
底野  男と女とでは多少容態が違ふさ。こよちやんは、今年十九だらう。おれが二十八だ。悪いことは云はないから、貧乏な奴んとこへお嫁に行くなよ。貧乏でもいゝから、何時でも少しづゝ現金を持つてる奴んとこへ行け。いざつていふ場合に困るからな。それから、なんでも、途中で止めたつて奴のところへ行つちやいかん。行商でも初めから行商をしてる奴ならいゝ。それもなるべくひと品だけを売るつていふ主義でないといかん。
こよ  いゝわよ、そんなお説教聞かなくつたつて……。そいぢや、今日は駄目ね。
底野  駄目でもないよ、どうせ暇なんだから……。ゆつくりしてき給へ。
こよ  さうぢやないのよ。お金のことよ。
底野  金のことなら、飛田が帰つたら相談しとかう。出る時に持つてなくつても、帰りには持つてかへるといふことが、間々あるもんだ。尤も、あいつは、拾ひでもしなけれや、十円とまとまつた金を持つて帰る筈はない。まあ、この夏まで辛棒し給へ、お互にね。
こよ  (諦めて)ぢや、帰るわ、あたし。
底野  あつさりしてるね。まあ、茶碗でも片づけてけ。
こよ  (茶碗をもつて勝手に行き、そのまゝ)さよなら……。

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底野はまたひつくり返る。今度は、雑誌も読まうとせず、毛布を腰に巻きつけ、両腕を上下して体操みたいなことをする、煖を取るためであらう。
そこへ、表から、飛田が帰つて来る。洋服を着てゐる。
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底野  おい、トンビ、今、そこで誰かに会つたらう。
飛田  うん、会つた。
底野  どうだい。おれのこと、なんか云つてたか。
飛田  いゝや、別に……。これから現金でなけれや、一切配達はしないつて断りやがつた。
底野  なんの配達?
飛田  米でも炭でもさ。
底野  米? 炭? なんだ、それや。相模屋の御用聞か。
飛田  さうさ。例のエヘヽヽつて調子ぢやなかつたぜ。
底野  それだけか。他には誰も会はなかつたか。
飛田  それを今、話さうと思つてるとこだ。
底野  おつと、それなら、こつちが先だ。なあ、おい、たつた今迄、そこに坐つてさ、今日は、ひとしほ晴れやかに、また馴れ馴れしくおれと語つて行つたぜ。髪は何時もの髪だが、まだ結ひたてゞ油も腐らず、前掛けは余所行の、例の緋の裏さ。今年は大して霜焼も目立たず、足袋をはいてゐるから光つた足の裏も見えない。
飛田  それより、おれは、今日、あいつに会つたよ。誰だか当てゝ見ろ。
底野  だから云つてるぢやないか、なるほどこゝへ来たことを黙つてゐたと見える。いきなり、その辺を見廻してさ、『あんたも、近頃貫目がついたわね』つていやがる。
飛田  そんなことより、こつちはどうだ。おれの顔を見ると、あの眼にもう涙を溜めて……。
底野  嘘つきやがれ。トンビでも、何時の間にか洒落たことを覚えやがつた。
飛田  断じて嘘ぢやない。――かういふんだ、まあ聴け、『実に懐しい。近頃はどうしてゐる。こんなところで立話もなんだから、その辺のカフエーへでもはひらう。』
底野  (躍起になり)馬鹿、馬鹿。おれは、外のことは云ひたくないんだ。日頃、貴様が、おれの主義を軽蔑し、果報は寝て待つべきものではない、よろしく……。
飛田  さうさ。よろしく、外へ出て、方々を探し廻れと云つた。犬も歩けば棒に当る、それが真理だ。その証拠に……。
底野  いや、黙れ。果報は寝て待て、その証拠がこれだ。いゝか、それからどうしたと思ふ。下宿代なんか何時でもいゝ。あなたが成功したら、それくらゐ御祝ひに熨斗をつけてもいゝと云つたぞ。それからだ……。
飛田  それからだ。カフエーなんとかの一隅だ。テーブルの上で優しくふるへてゐる桜草を挟んで、二人は、しみじみと積る話をした。
底野  なにが、積る話だい。こつちはな、いゝか、驚くな。同じ茶碗で、水を飲んだぞ。その甘さは、丸で砂糖水だ。レモンエキスでも入れてみろ、酒石酸を少しと。丸でラムネだ。
飛田  ラムネがなんだ。われわれはカクテルだ。
底野  誰が払つた?
飛田  向うだ。向うは、今度、親爺の遺産がころげこんだ上に、会社は先輩三人を飛び越して支店長……。月給は少くとも三百円だ。
底野  なんの話だい、それや。
飛田  そら、ゐたらう、おれと同郷の蜂谷さ。おれは、うれしかつた。カクテルに酔つた以上に、おれは、友人の成功に酔つた。幸福な話に酔つた。幸福そのものに酔つた。自分の現在に酔つたんだ。
底野  つまらんものまでに酔ふなよ。それで、そいつが、貴様の云ふ、果報は外を歩いて拾へか。
飛田  犬も歩けば棒に当るだ。
底野  犬の当る棒だから知れたもんだ。
飛田  貴様の話はなんだい。
底野  聴いてなかつたのか?
飛田  よく聴いてなかつた。誰が来たんだい。
底野  おこよさ、池中館《ちちうくわん》の娘さ。
飛田  なんだ、借金取か。
底野  借金は第二だ。
飛田  おこよが来たからどうだつて云ふんだい。それが、貴様の主義とどう関係がある。不良学生に取巻かれて、精神的処女性をとつくに失つてゐる娘から、何を得たといふんだ。貴様の果報つていふのはそんなことか。
底野  なにを。精神的処女性なるものを、貴様、云々する資格があるか。昔の友人が金持になり、支店長になり、それが、貴様の現在とどう関係がある。カクテル一杯で、頭が変になりやしまいな。公平に比べてみろ。たとへ誰のものでもいゝ。たとへ何を失つてゐてもいゝ。この殺風景な、この家賃も碌に払つてないやうな家の中で、一つ二つは隠してゐるとしても当年取つて十九歳と称せられる十人並以上の美少女とたゞ二人、火のない火鉢を挟んで相対坐し得たといふことは、これこそ、おれが日頃……。
飛田  さうだ、それを云ふなら、こつちでも云はう。人口三百万の大東京を中心にして、誰がよく、友人の中で一番出世をした男に廻り会へるか。違つた電車、違つたバスに乗つてゐる二人の人間は、永久に相会することは出来ないのだ。一人が家の中にをり、一人が外を歩いてをれば、これまた、悲しい哉、顔を会はす機会を恵まれ得ないのだ。外は、今日も冬空だ。路は到るところ氷の鍍金だ。男も女も、襟巻に頤を埋め、擦れ違ふ人の横顔さへ振り向いてみようとはしないのだ。然るにだ……。
底野  わかつた。
飛田  然るにだ。
底野  もうわかつたよ。
飛田  いや、しまひまで言はせろ。然るに、偶然と云はうか、神の配剤と云はうか、二人の心が相通じたと云はうか……。
底野  犬が歩いて棒に当つた。
飛田  犬? 犬とはなんだ。誰が犬だ。
底野  貴様ぢやないか。
飛田  さうか。やつぱり、犬でいゝのか。
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     二

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底野が、また前場と同じやうに寝転んで雑誌を読んでゐる。夕方である。
玄関の格子が開いて、癈兵帽をかぶつた男がはひつて来る。
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男  御免。
底野  どなた?
男  かういふものですが、義務として、ひとつなにか……。
底野  なにをひとつですか。
男  絆創膏、又は征露丸……。
底野  薬ですか。薬は、一向、用がないんでね、家では……。
男  ですから、国家のため犠牲を払つた同胞への慰問と考へられて……。
底野  何処にゐるんですか、その同胞つていふ人は……。
男  われわれがその一人です。
底野  (起き上り)あゝ、さうでしたか。これは失礼しました。(玄関へ出て、丁寧に膝をつき)あなたがなんですか。それはそれは……。(考へて)まあ、どうぞ、お上り下さい。少し散らかしてますけど……。
男  いや、こゝで結構です。
底野  いや、そこぢやいけません。絶対にいけません。苟《いやし》くも国家のために犠牲を払はれた同胞の一人に対して、そんな待遇はできません。さあ、どうか……。それとも、おからだに、どこか御不自由なところがおありですか。靴をお脱がせしませうか。
男  いや、それには及びません。ぢや、ちよつと、こゝへ掛けさして貰ひます。えゝ、この証明書にもあります通り……。
底野  (それをさつきから読んでゐる)はあ、僕、これくらゐのものなら読めますから……。なるほど、間違ひはないやうですな。
男  はゝゝゝゝ。どうも、近頃、偽物が横行して、われわれは迷惑しとるです。
底野  本物はやりきれませんな。
男  何しろ、戦争当時乃至直後に於ては、世間も出征軍人とか、名誉の負傷者とか云つて、ちやほやしてくれますが、だんだん時日が経つにつれて、熱が冷め、忘れ勝ちになり、たうとう、振り向いてもくれないといふ有様です。
底野  よくしたもんですな。人間の冷《ひ》やゝかさは、恋愛の末期にだけ現れるんぢやありませんね。
男  所謂、癈兵、今日では別の名前がついてをりますが、その方が通りがよくて重宝です。この癈兵などに対する社会一般の態度は、日に日に、無関心を通り越して、一種の軽蔑反感にまで達してゐる。これは、われわれ一同の甚だ心外とするところで、かの戦場で、生命の一つ手前までを捧げた勇士の末路として、かくあらねばならぬかといふ疑ひをもつんです。
底野  御尤もです。失礼ですが、日清ですか、日露ですか。
男  わたしは日露です。得利寺の激戦で、この通り、片腕をもぎ取られました。わたしなどはまだ仕合せな方で、今、この向ひ側を廻つてゐる男などは、両腕と片足を奇麗に浚はれちまひました。これは奉天です。
底野  悲惨ですな。今度の事件などでも、大分、あなた方のやうな人ができたでせうな。
男  できたでせう。しかも、みんな、われわれと同じ運命に陥るわけですが、本人たちは、今は、これを知らずにゐるでせう。病院で次ぎ次ぎに来る慰問者の花束に囲まれてゐる間は、そんなことに気がつかないんです。三年、五年、十年彼の饑《ひも》じさ、恥しさ、無念さは、夢にも想像してゐないでせう。
底野  国家は何をしてゐるんでせう。新聞は眠つてゐるんですか。富豪は何処へ金を撒いてゐるんです。
男  あなたのやうに云つて下さる方は、まつたく稀《めづら》しいです。
底野  稀しいことを、僕は悦びません。僕は、日本でたゞ一人、あなた方への義務を怠つた人間として、激しく非難されることをすら望みます。あなたは、この得利寺の激戦で、何隊に属してをられましたか。
男  野戦砲兵第三連隊第二大隊第四中隊第一小隊第二砲車照準手です。
底野  長いですな。そして、その激戦の模様、並に、あなたの御活動振りは? 照準手だとすると、さぞ猛烈に覘ひを定められたでせうな。
男  定めましたとも……。かういふ境遇で、自分の手柄話などするのは、あまり感心しませんが、わたしの中隊長粟屋大尉は……。

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この時、表から呼ぶ声。『おい、早くしろ。来るぞ、来るぞ』
男は慌てゝ薬をしまひかける。
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男  何れまたこの話は、この次の機会に……。どうです、この絆創膏を一つ……二十銭です。
底野  いや、折角ですが、絆創膏はあんまり……。注射は自分でやらないもんですから……。
男  傷をされた時には如何です。
底野  傷をするくらゐなら、針で縫ふぐらゐのやつをやるですからなあ。
男  早くして下さい。征露丸を一袋、それぢや……。
底野  征露丸つてやつは、僕の知つてる車屋が買つたつていふんですが、あんまり効かんらしいですな。熱なんか、なほ高くなるつていふぢやありませんか。
男  そんなことはありません。さあ、早く願ひます。連れが待つてますから……。これが三十銭……。
底野  もうなにか、
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