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底野  ありがたう。なるほどうまい水だ。これで少し砂糖でもはひつてると申分はないんだが……。あゝ、さうだ、こよちやん、こんど来たとき返すから、朝日一つ買つて来てくれよ。君だつて、もう一二本は喫つてもいゝ年頃だぜ。君のその口元でさ、歯の間にちよつぴり煙草のやにをくつゝけてるなんて、絵にだつてありやしないぜ。よう、買つて来てくれつてば……。
こよ  だつて、あたし、今日は往復の電車賃きり貰つて来ないんですもの。ちよいと、火鉢に火もないの。
底野  ぢや、帰りの分は落したつて、歩いてけばいゝぢやないか。
こよ  こつから神田まで……? 一体、どれくらゐあるの、十里ぐらゐあつて……?
底野  馬鹿云つてらあ。電車で市内とも三十分ぢやないか。三十分つて云や、普通の足で一里足らずだ。
こよ  さうを。そんなゝの? でも、一里歩くのいやだわ。あたし、近頃、少し歩くと(左の胸をおさへ)こゝがどきどきして、なかなかとまんないのよ。
底野  年頃になれば誰だつてさうだよ。おれだつて、もう五六年前までは、さういふ風だつたよ。何処か外へ出ると、帰つて来るまで呼吸《いき》が苦し
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