ほしい。
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まだいろいろ述べたいこともあるが、学校教育についてはこれくらゐにして、次に、やはり文部省の管轄に属する社会教育(成人教育を含む)について一言する。
従来、わが国の政治といふものは、国民の芸術教育、殊に芸術政策なるものにはおよそ無関心であつた。
最近、それでも映画を中心として、頓にその気運が高まつて来たのは、その実績はともかく、将来のため慶賀に堪へないのであるが、私は公平にみて、この気運が真に政府首脳部の覚醒にあるかどうか疑はしいと思ふ。その証拠に、すべて、法的に、又は事務的に解決できる方向にしか進んでゐないのである。つまり、既成のものを取締り、或は刺激するといふやうなことしか考へられてゐない。国家百年の計としての、大局に立つた政治的創意が看取されないやうである。
この問題も論じだすと切りがないから詳しく書かぬが、二三希望条項をあげておく。
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一、芸術院を改組し、各専門部門に分け、それぞれ実質的な活動をなさしめること。例へば文学部門では標準日本語辞典の編纂といふやうな。
二、官立音楽学校、美術学校に対して、速かに、官立演劇映画学校を設立すること。演劇映画の根本的改善はもはやこれ以外に道はない。
三、放送局の機構を改め、文部、逓信二省の管轄下に置き、文部省は放送番組を通じて社会教育の実をあげること。
四、図書及び興行検閲の主体を文部省に移管し、要すれば内務省側の参加を求めること。
五、全国の都市及農山漁村の娯楽教養施設に関し、その指導者を本省より派遣、又は委託すること。
六、文教に関する新事業が決して不急事業に非ざることを戦時予算の面にはつきり表はしてほしい。
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四
近衛内閣の基本国策声明なるものが昨日(八月二日)の新聞に発表された。従来の声明にみるごとき抽象的文字の羅列であるきらひはまだあるが、それでも、なにかしら革新の気が見えないではない。日本人好みの、地味に、見得を切らぬところが却つて頼もしいと云へば云へるが、相変らず、肝腎の新政治体制がどういふものかといふことは語られてゐない。しかしながら、現在国民は政府のなさんとするところを性急に知らうとするよりも、もはやその導くところに従ふ覚悟をきめてゐるのである。その道は多難にして曲折を極め、彼岸の光明に達するには、国民全体の疑心なき協力を必要とすることがよく理解されてゐる筈だからである。
「正しいことをするのに張合のある制度」(安井内相の言葉)はむろん望ましい。それと同時に、真に国を愛し、真に国のためになる人物を徒らに眠らせておかぬ制度が更にこの際われわれとしては望ましいのである。
今日までにも、政府当局によつてさういふ意図だけは示されたことがある。民間の専門家をいろいろな名目で各種の事業部門に参加させてゐるやうであるけれども、これは概して、一種の諮問機関にすぎず、本来責任を与へられてゐないから、これに時間と労力とを割く限度があり、事を行ふ真の情勢は机上より机上へと薄れ去つて行くのだから、結局、力の入れやうがなく、せいぜい形式的な意見具申に終るのではないかと思ふ。たとへ、さういふ人々から理想的な具体案が提出されたところで、実現の可能性は行政的な範囲に止まり、寧ろ根本に遡つての政治的な企画などゝいふものは、全く問題にされやうがないのである。なぜなら、専門的な立場からの最も重要な課題は、決して事務的処理によつて解決されるものではなく、云はゞ、国策の一つとして今日ならば先づ閣議の決定をみねばならず、一専門委員会の画期的な答申案が、所管大臣を通じて有効に提示され、果して他の閣僚を承服せしめるかどうかは、多大の疑問の存するところである。そこで、今度の文部大臣が専門の科学者であるところから、科学の分野に於ては十分の説得能力をもつてゐるであらうことをわれわれは信じ、その声明にも期せずして千鈞の重みが加つてゐるわけである。
ところが、同じ文化部門でも、文学芸術の領域に於てはどうであらうか? 伝ふるところによれば、新文相は哲学に於ても一家をなすとのことである。わが国の文教が「哲学的に」考察され、支配され、再建される希望が、今日はじめて「降つて湧いた」といふことは、国民にとつて、何といふ仕合せであらう。
哲学的政治のみが、文学芸術を、他のあらゆる社会機構のなかに於て、その占むべき地位を正当に指し示し得るのである。哲学的政治のみが、国家の活力と品位とを最も有機的に結びつけ、民族の真の理想をその行動のうちにひそめ、祖国への愛情と献身とを進んで国民に誓はしめるものである。
五
国民の一人として、私は、なほ軍官民の各部にこの時局下の相互関係について希望したいことがある。
戦時国家の政治的推進力と呼ばれる「軍」の重責に関しては、固より、われわれが喋々すべきところではないが、所謂「軍」といふ綜合名称を必要とする立場から、一応、軍部、軍隊、軍人といふものをはつきりわけて考へてみたい。所謂「軍」といふ精神からは、この区別は不必要であるかもわからぬが、国民として、あらゆる現象をさう高所から達観することはできないのであるから、以上の三つの観念は、不即不離にしてかつ、同時に、まつたく独立した機能体であることを徹底させておいてはどうかと思ふ。厳密なそれぞれの定義は私が不用意に下すことは慎みたいと思ふが、常識で考へて、軍部の意見とか軍部の態度とかいふものが、決して軍隊の力とか軍人の特権とかを背景としたものでないにも拘はらず、動もすればさういふ風に響くことが、なんとなく、私にさういふことの必要を感ぜしめるのである。なにはおいても「軍隊の絶対権威」にかけて、「軍部」の政治的動きや、「軍人」の個人的言行に、それぞれの領域に於て、責任の限界性をもたせることが、そんなに困難なことであらうか。
そこで問題になるのは、軍人といふものゝ性格である。特に専門的な知識と技術とを修得し、帝国軍人たる自覚と矜恃とをもつて各種の重要職務についてゐる将校なるものは、この時局下に於て、国民注視の的となつてゐるだけに、その性格が十分理解されてゐなければならないと思ふ。
ところが、それらの人物は、将校生徒として青年期の大部分をまつたく独自な環境のなかにおくり、極めて禁欲的な、秩序立つた、清潔な生活法に慣れ、宗教にまで高められた国家意識と、最も単純にして正常なる道徳と、あくまでも男性的、攻撃的な気力とを養ひ、しかも、一面、如何なる日本人も教へ込まれてゐないやうな儀礼と社交の形式を身につけてゐるのである。
一方、今日の他の社会部門はどうであらうか? すべてが反対とは云はぬけれども、およそ、実際的にみて、右と左の違ひが、あると云へば云へるのである。
私は常にさう思ふのであるが、これまでわが国の社会現象として、所謂「思想」の摩擦とか「感情」の対立とかゞ問題にされるけれども、いつたい、さうはつきりと「思想」の摩擦や感情の対立が最初から事を面倒にするであらうか? さういふ場合もないではないけれども、やはり、誤解、乃至意志の疎隔が一番われわれ日本人の間に相互の紛糾をかもしだしてゐるのである。
軍人から見た所謂「地方人」が異様につかみどころのない姿をしてゐることが稀でない如く、他の社会からみた「軍人」がなんとなく近づき難い観のあるのは、まさに、双方の「性格」の表面的相違をあまりに深刻に考へすぎるところにあるのである。
云ふまでもなく、社会の各部門はそれぞれの使命と職能に応じて、ある点では、ある程度まで、その性格の特色を発揮するのが自然であり、そして、それによつて、人間生活の興味ある多様性が生れるのであるけれども、その間にもつと共通の、理解し易い、互に認容し得るところの面を多分にもち合つてゐることが、文明の常態であり、理想なのであつて、ひとり、軍人と軍人ならざるものとの間ばかりでなく、官僚と民衆の間においてはもとより、現在、わが国の各社会層の間に、およそ人間と人間との接触協調に必要な基礎条件たる、「風俗の共通」を欠いてゐることを、こゝで、はつきり肯定しなければならぬ。
一つの例として、議会に於ける議員の質問振りをみよう。若し当面の政府委員が仮に軍人である場合、その質問の内容や動機はともかく、言葉の調子とか、ヂエスチユアとか、時には、その演説に対する同僚議員の反応とかいふものが、如何に屡々軍人には「苦々しい」印象を与へるものであるか、これは私の想像であるが、ひとつ腹を割つて訊いてみたいものだと思ふ。
人間心理の機微はしかし、さういふところにもあるのだといふことを、誰も考へてゐないであらうか。しかも、政治は、その人間心理と離れて存在するものでは断じてないのである。
今更そんなことを論議してみてもはじまらぬといふものがあれば、私は、敢てこの機会に、こんなことを論議しなければならぬ理由を明かにしよう。
それは、即ち、待望の新政治体制、並びに国民再組織の本質的な精神につながる課題だからである。
こゝで私が先づ軍部に希望したいことは、軍部が抱懐する理想は、国民全体を少くとも今日に於ては、名実ともに「武人化」することにあるかも知れぬが、それはまあ理想であつて、そこまでは望まぬといふことをはつきり宣言し、その代り、新しい国民教育の参考として、将校生徒訓育の系統的理論と実際とを差障りのない限り自発的に公開してはどうかといふことである。
これは一方、社会各層の軍人に対する認識を深め、心ある青年の奮起を促し、軍人自身にとつても、なんらか得るところあるを疑はぬ。
私個人の意見をもつてすれば、国民全体の「武人化」などゝいふことは、理想として芳しくないと思ふ。「軍人として戦ふ」といふことは、一旦緩急ある場合、わが国民のすべてに課せられた義務であるけれども、「武人として」その他の職業に携るといふことは、まつたくと云つていゝくらゐ無益のことである。軍人には、それゆえ専門家が必要であり、専門家は、専門家として欠くべからざる技術と精神とを体得してゐればそれでよい。この技術と精神とが、短時日に、招集に応じた国民のすべてを「兵力化」する技術と精神なのである。しかるに、わが国の現在の教育は、国民としての嗜みといふ点、男子としての心身の鍛錬といふ点、社会秩序の遵守といふ点などで、当然払はれなければならぬ用意が閑却され、それが偶々専門的軍人の社会に於ては、その教育のある種の聡明さによつて、所期の結果を挙げてゐるのである。決して専門的ならざるその世界に於て、青年指導の一つの模範が示されてゐるといふことは、あながち軍人贔屓の説ではないと思ふ。
が、私は更に、軍人ならざる社会の人々にも次のことを希望したい。
軍人に対する時、そのうちにはこれを「一般人」の風習からみれば、いくぶん同感しがたい節々があつたやうな場合でも、これを直ちに「職業意識」なりと考へる前に、やはり、軍人といふ職分を理解し、それに値する光栄と満足とを十分に享受せしめる同胞的情誼がなくてはならぬといふことである。
戦線にある軍隊への銃後国民の感謝は、もはや今日、絶頂に達してゐる。そこには将士の別もなく、功績の大小も問題ではない。われわれは均しく「戦ふ人の心」を尊しとし、その労苦を偲び、戦勝の報に胸を躍らし、護国の霊に拝跪する。しかしながら、戦闘は有能な指揮者なくして利を得ること難いのであつて、帷幄の謀も、軍政の運用もまた前線兵力の死命を決する要件なのである。
現在及び将来の日本は、それを好むと好まざるとに拘はらず、深慮ある政治家と機略に富む武官との合体によつて、国防国家としての全機能を完備しなければならず、そして同時に、首相の声明にもあるやうに、軍官民の強力な提携のみが事変処理の鍵であり、社会各般の改新と活溌な進展とをもたらすものだとすれば、この、軍部、官僚、国民の三者が、ただ強制的、便宜的、形式的な結合だけで事足れりとするやうであつては、悔いを千歳にのこ
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