ふ。
 序ながら、新聞は、その国民心理への影響力と時代を視る明敏性とにかけて、政府当局に、宣伝報道に関する必要な建言をしてはどうであらうか。かういふニユースを出せと云はれても、それは害あつて益なしと見たら、よろしく情を具して、掲載見合せ方を希望すべきであると私は信ずるものである。さういふ場合はもちろん屡々はないであらう。しかし、またさつきの例に戻るが、自殺したスパイの遺骸に、取調当局の主務官が敬意を表したといふやうな記事は、差しづめ遠慮してもらつた方が国民はありがたい。なぜなら、そんなことは当然なことで、わざわざ吹聴しなければならぬ義理合は少しもないのである。それが一層わが国の立場を有利にするとでも考へてのことなら、およそ人心の機微に通じないやり方だと云はねばならぬ。別に大したことでもないが、私は気恥しい。多分、国民の大部分は、国際的な問題だけに、おなじ気持だらうと思ふ。
 その他、国民の愛国心や友邦への親善感を強調するためであらうか、よく、誰それがヒツトラア総統へ何を贈つたとか、某女学校の生徒がフランコ将軍に手製のなにを贈呈するとかいふ記事が麗々しく出る。いつたいこれは当り前のことであらうか? 贈りたい人は、どういふ名目であれ、何を贈つても勝手であるが、それをさう重大なことに結びつけて、天下の新聞が騒ぎたてることはないではないか。そんなことをするから、猫も杓子もそれに似たことをやりたくなるので、かゝるセンチメンタリズムは断じて、愛国の精神とは云ひ難いのである。
 戦地の報道も、年月の久しきに亘つて、さすがに変化のつけやうがない様子である。これは無理のないことで、少しも責める気にはならぬ。国民の忍耐は寛大にこれを受け容れてゐるが、さて、若し、望み得るならば、やはり安価なセンチメンタリズムを一掃してもらひたい。自爆勇士の愛犬が淋しく帰らぬ主人を待つてゐるといふやうな描写は、たゞ国民の心を「いたいたしく」暗くするばかりである。血腥い戦線を馳駆する若い記者諸君に対してはたしかにむづかしい註文であらう。それを十分察すれば察するだけ、記事の整理と調節とをその衝に当る人々に望みたい。戦ひつゝある国民に、仮にも、余計な涙を流させてはならぬ。日本人の感ずる「もののあはれ」の深さは、一動物の擬人的感情を借りなくてもよいのである。
 しつつこく、いろいろと並べたてたけれども、私の云ひたいことは、今こそ、ヂヤアナリズムが率先して、国民の健全な知性を眼覚めさせてほしいといふことである。さういふ能力が何処かで休止してゐる現状を早速研究してみる必要があらうと思ふ。

       三

 ヂヤアナリズムの以上のやうな傾向が、まつたく国民大衆の教養を反映し、これに迎合しなければ経営が成立たぬといふことであれば、私は、こゝで、現在の国民教育について、忌憚のない意見を述べねばならぬ。これも決して批判のための批判ではない。新しい政治体制に応ずる新しい国民教育が吟味されねばならず、私もまた聊か教育の仕事に携つてゐるものであるから、その責任に於ても亦、為政者及び教育界の識者に訴へたいことがある。
 普通、智育、徳育、体育と並べて、これを国民教育の三単位となすの習慣がある。そして、或は智育偏重の弊を云ひ、徳育の欠如を指摘すれば、いつぱしの口利ける政治家であり、教育家であるといふのが、今日までの大勢であつた。そこで前に挙げたやうな、新文相の声明は、一種の革新的な内容をもつかの如き印象を与へるのであるが、精神の諸機能の微妙な連繋は、学問と道徳とが無縁のものでないといふ結論を導き出し得るのである。例へば、勇気にしろ、誠実にしろ、質素にしろ、謙譲にしろ、物事の生命と真理に徹する行為のうちに於て、はじめてかち得られるものである。
 私は、国民の一人一人が、偉大な理想を抱いて生涯をこれに賭けることを少しも危いことだとは思はない。危いのは寧ろ、人間として、国民として、何を「偉大な理想」といふか、それを誤つて教へ込むことだと思ふ。
 大臣大将を夢みる少年は近来少くなつたかも知れぬが、小学を終へて、順調に中等学校へ進み得ぬ多数の少年は、人生の第一歩を既に踏み外したと思ひ込んでゐる。中等学校から上級の専門学校、又は大学に進むことは、単なる知識欲からではなくて、立身出世の道がほかにないと考へられてゐるからである。あらゆる青年は、たゞ将来就職に「有利な」学校を目がけて殺到し、目的を達しなければ、当座は半ば自暴自棄となる。その時はもはや、向学心は停止したも同然である。私立大学のあるものは、かゝる種類の学生を集めて、ひたすら、その歓心を買はうと努めてゐるのである。
 優勝劣敗は世の常だから止むを得ぬと云ふのか? これが国家にとつて由々しいことだといふのは、かくして、国民の大部は、自ら、いはれなく社会的失敗者をもつて任じてしまふからである。いくぶんの諦めは、その感情を次第に押しこめてしまふであらう。しかしながら、生涯を通じて、事ある毎に、「学校」にからまる卑下の感情は、社会的成功といふ誘惑的な言葉と固く結んで離れる時はないのである。この不幸は、既に、早ければ十四歳、遅くも二十歳に於て、宿命的なものとなるのである。少数の犠牲ならまだしも国家としては忍ぶべきである。しかし、犠牲は国民の大多数なのである。訴ふるに由なきこの災禍は、現代日本の社会をどれだけ陰鬱なものにしてゐるか、これは想像にあまりある事実である。
 罪は、教育制度の欠陥と、教育者の不見識にあることもちろんであるが、その上、国民教育の根本精神のなかに、人間の価値、生活の意義についての、やゝ時代錯誤的な観念がひそんでゐることを見逃すわけにはいかぬ。
 一口に云へば、日本国民の資格において、あまりにも「肩書」が物を云ひすぎるのである。職業に貴賤なしと教へながら、職業以外に自己の生活の恃むべき拠りどころがないから、自然、職業的習癖によつて人物の品質が決定されてしまふのである。
 国民の国家と社会への奉仕は、その全人格によつてなされなければならぬ。決して、その生業を通じてのみではないのである。このわかりきつた事実が、教育の面で如何に曖昧にされてゐるか、自然その結果は国家に有用だとか社会に貢献するとかいふ常套語が、何を意味するのか常識ではわからなくしてしまつてゐる。国家の恩賞が官吏に厚く、民間に薄いといふやうな政治的封建性もさることながら、一般民衆の間で、如何にある種の地味な努力、献身的な事業が軽視されてゐるかを見ればわかる。殊に、「その人」の存在そのものが世の中の光明であり、幸ひであるといふやうな人格的魅力に対して、わが国民は実に鈍感になつてゐることを私は非常に悲しむ。
 国民道徳の教へは、表面の「行為」を云々しすぎて、深く人間心理の機微を説いてゐないからである。
 こゝまで書いて来た時、たまたま、「文政改革の方向」について橋田文相と三木清氏の対談なるものが読売紙上に発表されたので、今朝(八月二日)これを熟読した。
 文相の言によれば、所謂「科学振興」の目標は、自然科学のみにあるのでなく、文化科学をも含むものであり、科学教育の根本は、「科学する心」を養ふにあるとのことである。まことに妥当な意見であるのみならず、特に私の興味を惹いたのは、偶然、この文章のなかで私が指摘した「科学と道徳とは対立するものでない」といふ思想を、文相自身もはつきりこゝで強調してゐることであつた。これまた、近頃の政治家には珍しい声明であつて、国民はこの見識のもとに生れる将来の文教政策には満幅の期待を寄せていゝと思ふ。
 たゞ、如何なる正しい企図も、社会の現実に直面しては、よほどの決意と政治的手腕なしには、これを具体化することは困難であらう。国民は当路責任者の善き意志を知つたならば、極力その方策を支持し、万難を排して目的を達成し得るやう努めなければならぬ。
 そこで、「国民教育」全般に亘つての改革が必要とされるが、既に前内閣に於て小学校を国民学校とする新制度の発表も行はれ、教授課目の内容についても、一応形式上の整理を見たのである。しかしながら、およそ教育の精神とその実践の効果については、まだわれわれは多大の疑問を抱いてゐる。なぜなら、小学校を国民学校と改称するといふやうな「名目尊重」の気風が現在の指導階級に瀰漫し、一種安易な独善主義ともなり、真の改革に何が必要であるかを忘却してはゐないかといふことを懼れるからである。
 私は、政治技術として、何を先にし、何を後にすべきかといふやうな問題には不案内であるが、是非これだけは考へてほしいと思ふことを列記して見る。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
一 初等、中等学校教員の待遇をもつとよくすること。第一に俸給の率を、少くとも現在の倍ぐらゐにすること。最少限度に必要な自修の余暇を与へること。適当な国家的賞与と軍人並に社会的恩典を与へることなど。
二 教科書の編纂に当り、各科目を通じて、陳腐な教科書臭を脱するため、局外識者の協力を求めること。例へば国語国文読本の如き、この方法によつて一層時代に適応したものとなるであらう。当事者は自己の領域に鑑みて、それだけの雅量を示してもらひたい
三 日本人の多くが、自分の考へを、公にはつきり口で云ひ表すことができない。その原因を私は教育者一般に考へてもらひたいが、差当り、文部省でこれが研究調査のための委員会を作ること。初等学校に於ける「話し方」の重要視は最近の現象として私も注意してゐるが、これを技術としてばかりでなく、むしろ心理的に、風俗的に見て教育の方針を樹てゝほしい。
四 中等学校、殊に専門学校、大学の数の制限と質の向上を計ること。殊に営利を主とする学校は、情実に囚はれず、これを廃止すること。
五 専門学校以上の教師は、原則として一校限りの専任とし、時間給などゝいふ制度を廃止して十分生活を保証し、学生と接触する機会を多く作らしめること。学生生活の頽廃は、学生と一緒に時間を過す教師の少くなつたことがその原因の大きな一つだからである。
六 上下の学校を通じて、男学生にも現代作法を学ばしめること。これがためには、作法なるものゝ観念をまつたく新たなものとする必要がある。風俗に現はれた社会秩序の精神と、文化の装飾的意義とをまづ徹底させなければならぬ。虚礼との混合を避けることが最も重要である。例へば作法なるものが「西洋料理の正しい食ひ方」などゝいふ題目で代表されるから、現代青年を作法そのものから遠ざけるのである。
七 現在の家庭及社会教育の不備混乱を補ふため、学校に於て、日常生活を健全に、豊富にする実際的指導を行ふこと。この日常生活の規律は、日本人の特性をよく活かし、しかも形式を脱した合理的、自発的、進歩的なものでなければならぬ。如何なる経済的条件にも拘束されない趣味と、矜持と、社交性の涵養が必要である。政治、経済、文化に関する常識はもちろん、恋愛並に結婚の問題に関しても、両性それぞれの立場に於ける正常な観念が樹ゑつけられるのはこゝに於てゞある。
八 軍事教練はある意味に於て、もつと重要視されなければならぬ。ある意味に於てといふのは、学校当局の一層理解ある協力を侯つて初めてその目的が達し得られるといふことである。つまり学生をして教練をする心構へをつくらせるのは学校当局の責任である。
九 学校に於ける諸儀式が学生にとつてまつたく魅力のないものであることを考へたなら、これをまづなんとか工夫しなければならぬ。十分に反省を要する問題と考へられる。儀式を真に儀式らしくする能力は、現代の日本人が是非とも養はねばならぬ点である。青年の元気を鼓舞し、感情を浄化し、よろこんで協同の目標に邁進するといふ厳粛な気分を起さしめるのは、最も芸術的に仕組まれた儀式のうちに於てゞある。儀式の尊重は作法のそれの如く、まづ時代に即した新しい観念と、尊重するに足る形態美を示さなければならない。
十 外国語についても、私には私の考へがあるが、長くなるから今こゝでは述べぬ。たゞ、文相の英断によつて、区々の議論を整理一致させて
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング