一国民としての希望
岸田國士

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       一

 国民の一人一人が今日ほど政治といふものに関心をもつてゐる時代は未だ嘗てないだらうと思ふ。それはもう、被治者としての消極的な関心ではない。国民のすべては、自分たちのなかゝらこの祖国を立派に護り育てる有能な政治家が出ることを痛切に望んでゐるのである。
 しかし、何処にどういふ人物がゐるかといふことを国民の大部が知らずにゐたといふのは甚だ迂闊な次第であつた。私もご多分に漏れぬ組であるが、日頃、政治や政治家に興味をもたなかつた酬ひがこゝに現れたのであつて、今更致し方がない。新聞雑誌を通じての俄か仕込みの知識がどれほどあてになるか。新しい内閣ができると、新大臣は例外なく評判がいゝ。それがしばらくたつと、平々凡々といふことになる。しまひには、なぜそんな人物が国政の重任を負つたのか、国民は不思議に思ふのが常である。
 もちろん、一国の政治は大臣のみの自由になるわけではないから、大臣になつてどれだけのことができるかは別問題としておくが、今日のやうな時局に、国民は所謂挙国内閣の顔ぶれに期待するところは非常に大きいのである。
 殊に、この度の近衛内閣は、新体制といふものゝ樹立がこれと結びついて、国民に固唾を呑ませてゐる。近衛公の人望は、幸ひにして、この異常な空気をさほど暗くないものとすることに成功してゐる。少くとも、日本の現状を憂ふるものにとつて、すべての改革は一応、希望の光りにてらされてゐると云つてよい。
 私は国民の一人として、この内閣を全幅的に信用しようと思ふ。
 安井内相の談話として、「正しいことを行ふのに張合のある制度を作る」といふ意味のことが新聞に発表されてゐたが、これも私は気に入つた。これは月並な宣言ではない。なかなかよく考へられた言葉である。今日かういふことを云ひ得るだけでも政治家として尊敬に値する。ほんたうにそれができれば、国民はどんなに感謝するかわからない。
 橋田文相は、科学振興について意見を述べてゐた。あれだけの内容なら別に新しい着眼でもないと思はれるが、橋田氏の思想の根柢はもつと深いものであらう。たゞ、私がこゝで一言この問題に触れたいと思ふのは、近頃科学科学と方々でやかましく云ひだした、その動機が如何にも浅薄で外聞がわるい。云ふまでもなく、独逸軍の優勢を、科学の勝利とみることによるのであらうけれども、それはフランスの敗因が、芸術尊重の精神にありと考へるやうなものである。なるほど、独逸の科学兵器(この名称もをかしなものだが)は、英仏のそれよりも一歩進んでゐたことは事実として、また、赫々たる戦勝の主なる原因の一つをこれにおくのもよいとして、それは科学そのものが特に優れてゐたといふよりも寧ろ、「科学の軍事的利用」に於て、彼に一日の長があつたといふ方が正しいと思ふ。
 周知の如く、科学的精神と戦闘的性能とは、本質的に別個のものとして考へなくてはならないのである。たゞ、この二つのものを武力の機械化として結びつけるのが、おそらく用兵及び造兵技術の究極の目的であらう。そして、そこには、芸術家の想像に近い、破壊と抵抗の夢があるのである。
 戦闘に於ける科学の優位を今更他国に数へられて、若し、われわれの国民教育の重点をそこにおかうとするやうな傾向が生れたら、私は、その本末転倒を嗤はずにはゐられない。
 もちろん、日本人は甚だ「科学的」でないといふ一般の事実を否定はせず、もつともつと、この点では、教育の根本的刷新が必要であると私も考へてゐる。しかし、「科学教育」の目的は、仮に、目前の戦争に役立たしめるにあるとしても、決して、軍用器材の発明やその操作に向けられるばかりで満足すべきではない。しかもその「科学教育」に先だつてなさるべき多くの基礎工作が最も必要なる教育界の現状に於てをやである。つまり、「科学」といふものを、さういふものだと思ひがちな大多数の指導者の頭を改良することが急務だといふ意味である。
 新内閣と云へば、その首班たる近衛公の胸中には当然、一大決意がひめられてゐると思ふが、いづれも公の眼識によつてそれぞれの椅子を与へられた閣僚諸氏は、その抱懐する政治的理想をこの機会に達成せんと努力するであらう。国民は日々の新聞を待ちわびて、閣議のニユースに眼を吸ひ寄せられてゐる。折も折、松岡外相の提議にかゝるといふ官吏の恩給問題が具体的な唯一の事項として報道面に浮びあがつた。なるほど、これも機宜に適した議論に相違ない。しかしながら、われわれの期待に比して、なんといふ些末な事項の大袈裟な発表であらう。殊に不可解なのは、この問題の提案が松岡外相によつてなされ、陸相がこれに賛意を表したといふいきさつまで附け足してあることだ。かういふやうな内輪話はこの際、国民はちつとも聞きたくないのである。この発表は公式のものかどうか疑はしいけれども、この種の楽屋落的報道は、政界浮浪者の「小感情」に愬へる興味しかなく、国民の望むところは、もつと堂々たる形式で、決まつたことを決まつたと知らせて貰ふことである。
 由来、政府側の諸種発表と、これを取扱ふ新聞の態度とに、私は、もつと時局に応はしい慎重な研究を要求するものである。この統制ができなければ、国民全体の足並を揃へさせることなど考へるだけでも無理である。
 ヂヤアナリズムのことはあとで述べるつもりだが、差当り、政府当局に希望したいことは、国民に知らせねばならないこと、知らせてもいゝことを、もつと上手に、国民の心理にぴつたりと来るやうな方法で知らせてほしいといふことである。知らせるわけにいかぬことがいろいろあるといふことを、われわれは百も承知してゐるのであるが、知らせなければならぬことさへも、その知らせ方があまり押しつけがましく、無味乾燥であるために、国民は、やゝもすれば、これに耳を傾けながら、自分の判断の基準に迷ふのである。
 これは急にどうするといふわけにいかぬかも知れぬが、万止むを得ざれば、非常手段はいくらもある。要はそこに当局が気がつくかどうかである。
 例をあげればいくらもあるが、いづれも、結果は個人の問題になるからそれはやめる。
 徒らに国民の好奇心を刺激しておきながら、事実の論理的解釈を無視したり、努めて教訓的であらうとして却つて責任のあり場所を疑はせたりすることは枚挙に遑がないくらゐである。
 それをぼんやり聞き流すものもあるには違ひないが、今は、常識のあるものならば、きつと、首をひねつてゐるのである。個人の手ぬかりはしかたがないとして、それをそれですませていゝ時代であらうか? これがいつまでも改まらないのは、気のついたものが黙つて放任しておくからである。
 仮にも、国家の総動員といふことが云はれ、対外的にも、政府の発表は、公に国家の意志と頭脳の働きを示し、国民の文化程度を計る最も端的な資料となり得るものであるから、国民自身が納得するしないは別として、これが果して、国外にどう響くかといふことを考へると、転た寒心に堪へない。
 現在のやうな情勢における政治の権威と魅力とは、国民にかゝる不安と心痛とを抱かせないところにもあると私は思ふ。

       二

 そこで、今度はヂヤアナリズムの問題であるが、ヂヤアナリズムが国民の輿論を代表する時代ではないとしても、少くとも、国民をしてその信頼すべき政府に信頼させるだけの力は現在の新聞雑誌にはある筈である。またさういふ意味では、消極的な言論統制などゝいふことゝは別に、国民を健全に指導する役割は、大新聞大雑誌の誇りにかけても、これを放棄してはならないのである。
 私が近頃のヂヤアナリズムに慊らないのは、その言論が時局的な統制を受け、報道の範囲と種類が限定されてゐるといふやうなことでは決してないのである。紙面の低調は必ずしもこゝから来るのではなく、ヂヤアナリズムの機構のどこかに、個人としてヂヤアナリストがそれぞれもつてゐなければならぬ、またもつてゐる筈であるところの良識の鏡を曇らせるものが恐らく伏在してゐるからである。
 さうでなければ、例へば、最近の某事件の如きを、一様にあゝいふ風に取扱ふ道理がないからである。ある新聞は、わざわざ、犯人が平生親日家を装つて自分の名を「古楠」などゝ称してゐた、と書きたてゝゐる。「古楠」といふ漢字を欧名にあてゝよろこんでゐるのが、なぜ親日家を装ふことになるのか、私にはさつぱり合点がいかぬ。かういふ世間の論法が正しくないことを発見するのは先づ第一にヂヤアナリストでなければならない。ところが事実は全く反対で、不合理、卑俗な物の考へ方を第一に今の新聞が煽つてゐるかたちである。
 事変以来、一種の排外思想、殊に反英的空気が濃厚であるのは、政治的にも理由のあることに相違ないけれども、その調子の音頭取りは甚だ不手際である。国民の「悪感情」がたとへそこまで行つてゐるにもせよ、大新聞は大新聞らしく、日本人の力と技術とをもつて所謂敵性なるものに適当に対抗する姿勢を示さなければいけない。同じやうな例だが、支那に在住する民主主義国宣教師の行動について云々する場合でも、嘗てかういふ論法の悪態を読んで私は危く吹き出さうとした――それは、彼等の一人が布教を看板に人跡未踏の山野にわけ入り、ひそかに鉱脈を探して何者かの為を謀らうとしてゐた。その証拠にいろいろな鉱石を拾ひ集めて部屋に積んであつた。宗教の名にかくれて彼等の犯してゐる不徳行為はかくの如きものであるといふのである。なるほどさういふ事実が偶然あつたかも知れぬ。しかし、この宣教師の肩を持たうとするものでなくても、それだけの証拠では、なんら不徳行為と見做すことはできない。或は、単に鉱物学に興味をもち、研究のかたはら、標本の採集をしてゐたのかも知れぬ。宣教師のなかにはさういふ篤学者がなかなか多いのであつて、寧ろ、それだけの記事を読んだものは、きつとそれに違ひないと判断するだらう。これを取扱つた記者は、誰かに聞いた話をそのまゝ伝へたのかも知れぬが、そこは、ちよつと頭を働かせてもらひたかつた。これでは記事にならないと云へばすむことである。出先の記者がうつかりしてゐたとすれば、本社にいくらも人がゐるだらう。目的が目的であるだけに、整然と情理をつくさなければ効果がないのである。ところが、現在のヂヤアナリズムには、これに類する傾向が非常に多い。
 日本人の特性として、思考力の凝結といふことが欧米人によつて挙げられてゐる。一つのことを考へるとそのほかのことはつい忘れてしまふ。つまり、頭脳活動の重点主義が常に行き過ぎるといふ意味である。これはお互に考へなくてはなるまい。屁理窟、こぢつけ、腹を見すかされるやうな強がりがそこから生れる。美談でもない美談の強制もそこから来る。誰かゞ大臣になつたと云へば、新聞はきまつて、これを「出世した人物」としてしか取扱はないなども、やはり、それはそれとしてといふ「頭」の働かせ方が不足してゐる証拠であらう。さて、わがヂヤアナリストがすべてさうだと云ふわけではないことは、個人として、ちやんと立派な常識を備へ、犀利な批判の筆を取つてゐる人もなかなか多いのであつて、前にも云つたやうに、その罪は、たしかに現在のヂヤアナリズムの機構と、その運用のしかたのうちにあるので、これはひとつ是非とも首脳部にある人々の考慮を煩はしたいものである。
 長期に亘る事変に処して、国民の士気はあくまでも鼓舞しなければならず、当面の敵を忘れさせてはむろんならず、時には、頑迷な重慶政府を毒づくことも結構であるが、どうかさういふ時にも、国民の品位と余裕とを十分に示してほしい。仮にも敵将の家庭生活を暴いて快とするやうな手は用ひてもらひたくない。国民の一部はかゝるニユースを歓迎するかも知れぬが、さういふ心理は苟くも国民の名に於てするヂヤアナリズム紙面の声とするに値しないものであることを、今後、各社で申合せてはどうかと思
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