と魅力とは、国民にかゝる不安と心痛とを抱かせないところにもあると私は思ふ。
二
そこで、今度はヂヤアナリズムの問題であるが、ヂヤアナリズムが国民の輿論を代表する時代ではないとしても、少くとも、国民をしてその信頼すべき政府に信頼させるだけの力は現在の新聞雑誌にはある筈である。またさういふ意味では、消極的な言論統制などゝいふことゝは別に、国民を健全に指導する役割は、大新聞大雑誌の誇りにかけても、これを放棄してはならないのである。
私が近頃のヂヤアナリズムに慊らないのは、その言論が時局的な統制を受け、報道の範囲と種類が限定されてゐるといふやうなことでは決してないのである。紙面の低調は必ずしもこゝから来るのではなく、ヂヤアナリズムの機構のどこかに、個人としてヂヤアナリストがそれぞれもつてゐなければならぬ、またもつてゐる筈であるところの良識の鏡を曇らせるものが恐らく伏在してゐるからである。
さうでなければ、例へば、最近の某事件の如きを、一様にあゝいふ風に取扱ふ道理がないからである。ある新聞は、わざわざ、犯人が平生親日家を装つて自分の名を「古楠」などゝ称してゐた、と書きたて
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