妙に「中学生の演説」然たる調子が鼻につき、沈黙派とは、結局、「思はせぶり第一」に過ぎないやうな気がして、少々、こつちが照れ臭くなつて来た。
 しかし、この作品が上演された当時、批評家は、この「甘さ」に眼をつぶり、一斉に好意ある讃辞を呈したことを想ひ起し、時代と作家の運命といふ問題に就いて考へた。
 ある批評家はかうも言つた――「音もなく咲いて音もなく凋む一輪の花の命を、ある限られた時間に観察することができるとしたら、それは恐らく、彼の戯曲を観ることになるであらう……」と。
 実際、彼の企てたところは、あくまでも蕭やかな魂の囁きに耳を傾けることであり、繊細な暗示に富む心理描写の、清澄な詩的表現によつて、「沈黙」の底にひそむ人生の姿を掴まふとすることであらう。しかしながら、彼の早熟な才能は、父トリスタン・ベルナアルの血を享けてゐる証拠を示すだけで、未だ「黄吻」の域を脱してゐない。ただ、この作品は、発表当時、兎も角も、一つの理論を背景として新興劇壇に相当のセンセイションを惹き起したといふ事実だけでも、今日、顧みられる価値があるだらう。彼は、この外に、処女作として、「二度燃え上らない火」を、次
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