来たからである。
 日本の映画ファンも、外国映画の異国情緒は別として、真に俳優の演技に心を惹かれるやうになれば、必ず舞台への関心を呼び覚まされ、その時はじめて、「新劇」はなにをしてゐるのかといふ疑問を起すであらう。
「新劇」は、今日まで、いろいろのことをして来た。が、ただ「商品」にならなかつただけである。「商品」といふ意味は、金を払つて見に行く価値のあるものといふことである。
 われわれは、長い間痺れを切らした揚句、やつと、そのことを問題にしだしたのであつて、既に、最近の成績を見ても、これなら、一人金一円を投じても損はないといふ公演が二三相次いで行はれた。古今未曾有の出来事である。
 興行主は、「新劇」など自分の畑でないと、高をくくつてゐるに相違ない。所謂、歌舞伎、新派に慊らず、久しく劇場に遠ざかつてゐる頼母しい観客層は、早晩、「新劇」が何をしてゐるかを知つて、われらの求めてゐたものはこれだと云つて呉れる時があるだらう。まだ、それほど大声に喚き立てる時機ではないが、「新劇」がまつたく独力でここまで漕ぎつけたことは、困難な条件を勘定に入れて、もう少し認められてもいいのではないかと思ふ。

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