ペラ、オペラ・コミイク、トロカデロの五座)は私の滞仏中の観察に拠ると、当時の情勢で、十分にその文化的意義を発揮しつつあるやうに思はれた。
 巴里の劇場は、その数、百に余るといはれるが、そのうち、勿論芸術的価値の全然認められない興行も混つてゐて、これが吸収する観客の層も甚だ広いには違ひないが、少くとも、国立劇場を除く所領ブウルヴァアル劇場中、その主流を占める大劇場の経営者は、何れも、絶えず算盤ははなさないにしても、一様に相当の「芸術愛好者」であり、多少とも「文化的教養」の所有者たることを疑ひ得なかつた。
 これは、ある場合、さうであることが却つて算盤に合ふのかもしれないし、また、少々穿ちすぎるやうだが、さうでなければ世間で――即ち彼等の出入する社交界で、大きな顔ができないからであるとも考へられる。名誉心といふか、矜恃といふか、または単なる見栄といふか、そのへんの微妙な心理が、この重大な現象を支配してゐるといへないこともあるまい。
 これがつまり、実際的に見て、一国の文化水準如何によつて定まる問題なのである。そして、時代の演劇をしてある水準を保たしめる原動力は、国家の積極的インテレストが加
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