のメンバアは、有為な頭脳にも拘らず、近代演劇の芸術的進化について盲目であり、俳優の教養については更に考慮を払つた形跡がない。
 坪内逍遥は、演劇に関する限り一個の傑れたアマチュアであつて、一世を指導する創造的着眼を欠いてゐた。かくて、島村抱月も小山内薫も、終生アカデミイなきアンデパンダン的存在として、空虚な努力を「新劇」開拓の上に捧げたのであつた。
 一方、近代企業の列に伍した劇場経営は、国家の無関心に乗じ、民衆の無批判を利用して、多少の犠牲を伴ふ文化的役割を完全に放擲した。合法的に卑俗化するといふ顕著な現象を、最早、何人も制止し得ない「制度」を確立してしまつたのである。
 かかる弊害を予防するためにも西洋の諸国家は、夙に、演劇のアカデミイを設けてゐるのであつて、その内容は、教育機関と、劇場管理の二方面において、国家が財政的負担をなし、民間の専門家をしてその運用に当らしめ、以て「定評ある芸術家」の保護と、教養を求める階級の希望に具へ、更に、油断のならぬ営利劇場への牽制をこれ努めてゐるのである。
 国立音楽演劇学校(コンセルヴァトワアル)と国立劇場(コメディイ・フランセエズ、オデオン・オ
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