渡すと、多くの戯曲作家、演劇評論家、劇団関係者(無論俳優を含む)が、いつまでも、口で「新劇新劇」と唱へながら、以上の問題に無関心であることが察せられる。
 それゆゑ、大勢に於て、わが国の「新劇」は、三十年来、少しも進歩してゐないのである。
 嘗ては「新劇」の敵国であつた「歌舞伎」や「新派」が、相変らず劇壇の中心勢力であり、その勢力のなかに、動もすれば「新劇畑」の人々が捲き込まれ、吸ひ寄せられる奇怪な現象は、抑も、何に原因するかを考へてみるがよい。それもまだ、歌舞伎や新派が、この現象によつて、「多少でも」新劇的栄養を摂取するといふのならよろしいが、そんな気配は露ほども見えぬ。単に、一時的の便宜に、目先を変へるための装飾に、「新劇的材料」が使用されてゐるにすぎない。
 僕の嘱目する批評家内村直也君は、三田文学誌上で、「新劇は何故盛んにならないか」といふ疑問に答へてゐる。
「新劇」を「現代劇」の意に解せよといひ、これを「前衛劇《アヴァンギャルト》」と区別するの必要を説くあたりは、僕も大賛成であるが、その新劇が盛んにならぬ理由として、(1)[#「(1)」は縦中横]資本家のゐないこと、(2)[#
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