術の拘束を脱したといつてよい。
いふまでもなく、場所と時間とを限られることが戯曲創作上、最も大なる苦痛である。戯曲の人物が、往々にして「不必要」な口を利き、「不必要」な動作をすることによつて、作品の「生命感」を稀薄にし、芸術的効果を減殺することがあるのは、ややもすれば「不必要」に幕を開けて置かなければならないからである。時と場所と、人物との間に空隙が生ずるからである。必要な時に、必要な場所に、必要な人物のみを現はし、その人物が必要なことのみを云ひ、行ふことによつて、如何に戯曲の生命が溌剌さを加へることであらう。
「これからの戯曲」が、必ずしも場数の多いものになるとは限らないが、無理に場数を少くする不自由さから、漸次解放されることはたしかである。将来、舞台装置の機械的進歩と共に、それこそ、映画に近い場面転換が行はれるかもしれない。さういふ舞台を予想した戯曲を、私もそろそろ書かうと思つてゐる。
場数の多い戯曲が生れる理由はその他にもある。勿論第一の理由と関連はしてゐるが、これは戯曲そのものの文学的進化に直接結びついてゐる理由である。即ち、感情の昂揚、論理の破壊、ファンテジイの強調、視角
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