くすることを教へた。
「これは五幕だが、三幕にまとめられるものだ」とか、「これを一幕に仕上げられないやうでは駄目だ」とかいふ批評さへ通用した。三幕八場、乃至五幕十二場といふやうなものもありはしたが、それらは、少くとも作劇術の標本にはなり得ない性質のものであつた。古くはシェイクスピイヤ、ミュッセ、さてはイプセンにさへ、場数の多いものはあるが、それらの戯曲は例外の如く取扱はれて来た。然るに、近頃、先駆的色彩を有する劇などに於て、屡々十場、二十場といふ戯曲が現はれ出した。これから益々この傾向が著しくなるであらう。これには色々理由もあるであらうが、ある人々の如くこれをもつて単に活動写真の影響なりとするのは些か早計である。
 成るほど、映画的手法を漫然と取入れてゐる作家もあるにはあるだらうが、それよりもつと重大な原因がある。
 第一に舞台装飾の最近傾向が、実写的克明さと浪漫的華美とをしりぞけて、専ら観念的、象徴的、暗示的単純さを強調するところから、場面転換に経費と時間とを要しなくなつた結果、劇作家は、従来の如く、場数の制限を受けることが少くなつたのである。
 実際、劇作家は、ここで初めて旧い作劇
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