は必ずしも洗練のなかにあるとは限らない。素朴な、原始的なすがたのなかにもある。田舎にも、未開国にさへも、女らしい女はいくらでもゐると云へば当り前なことだが、女が「女らしく」なくなるのは、ある種の頽廃であることに気がつかなくてはならぬ。さういふ変化を故意に求める傾向が、不健康な社会には発生し易いのである。
但し、現在の日本などで、ある種の女のひとが「女らしさ」を失つたと批難されたとしても、それは、まづ批難する方のひとを吟味してかゝらねばならぬ事情がありさうに思はれる。歌舞伎や新派のみを芝居だと思つてゐる人が、たまたま新しい芝居を見物して、これが芝居かと腑に落ちぬ顔をするやうなことが、今はざらに起つてゐる時代である。「女らしさ」を単に弱さとか、受動性(控へ目)とか、時には批判力のなさとかいふやうなことに結びつけて考へる人々、殊にそれが男性である場合には、十分警戒を要すると思ふが、その警戒が実は、屡々ほんたうの意味に於ける「女らしさ」を無意識に色褪せさせるものだといふことにもすべての女性は気をつけて欲しい。
所謂女の「コケツトリイ」が「女らしさ」とどう関係があるかについて考へてみれば一層
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