を反映してゐるにしても、義太夫、長唄等の三味線に合せる声が、著しく庶民的であるに反して、これはどちらかと云へば、特権階級的である。前者にみる被圧迫階級の忍従性が、こゝでは、特権階級の優越感によつて塗り代へられてゐる。従つて、これも、ある時代には美声の代表的なものとなり得るであらうが、今日では、少くともデモクラシイの精神に反する声である。変な声があつたものだ!
 琵琶歌の声といふものは、今、はつきり「耳」に浮ばないが、流派によつて可なり違ひがあるらしい。しかし、何れにしても、日本人の過去の生活を離れて、存在し得ない声であらうと思はれる。
 ただ、ここに、浪花節といふ奇妙な声楽がある。この声は恐らく、卑俗低調なその歌詞に、最も似つかはしい声であつて、「浪花節を唸る」といふ言葉は、確かに、真を穿つてゐるのみならず、これが大衆的人気を集めるといふ原因は、歌詞、歌調の情けない魅力による以上に、この「唸り声」が発散する一種の安価な刺激によるのである。この刺激は、これまた、封建的道徳の桎梏下に、諦めと反抗の間を往来する民衆の、辛うじて得る刺激の一つである。役人と番頭と向ふ鉢巻の若い衆は、正に、この民衆を代表するものである。
 これに対して、詩吟も亦、封建末期的産物であり、その歌詞歌調は、幾分、純粋ではあるが、その感傷的音声は、浪花節ほど刺激的でないにしても、頗る近代人の神経を悩ますものに違ひない。この声は、往時、自称革命家の悲憤慷慨に用ひられ、「憂国慨世の声」と響いたのであるが、その声がややわれわれの耳から遠のいた今日、再び、これに代る声が必要となりつつあるやうである。
 演説と号令、政治家と軍人以外に少い声であるが、どちらも、一概に、デマゴジイ又はミリタリズムの声として貶し去るべき性質のものではない。男性的であり、意志的であり、調子ッ外れでない限り、よく通るといふだけでも強味がある声だと私は思つてゐる。
 もう一つ、頭で鍛へた声といふものがある。これは、教養による自己批判と、一種の慎ましい矜恃によつて情操的にマスタアされた声であり、深みと余韻があり、どつちかと云へば幅の広い声である。
 更にもう一つ、生活で鍛へた声といふのがある。これは、年齢の増加による声に似て、実はそれとも違つたもので、所謂、世路の曲折を経て、人情の機微に触れ得たがための声である。沈鬱であるが底力があり、多少、荒れてゐることがあつても、澱みはない。生活にひしがれた声は底力がなく澱んでゐる。

 人間の声は、また、その個々の性情、稟質を表はしてゐる。銅羅声は鈍重で粗野、猫撫声は陰険で多情、金切声は気まぐれで打算的、裏声は非常識で見栄坊……などと、少々独断にすぎるかもしれぬが、幾分思ひ当る節がないでもない。
 鼻声といふのは、必ずしもその人物の性情を語るものでないが、多くは猫撫声に似て、あまり愉快なものではない。それも、時として、廃頽的な情景の中に点出されれば、一種の感覚的魅力を添へる場合があるにはある。さういふ意味なら、鼻声に限つたわけではないが……。従つて、その原因が、風邪を引いて鼻をつまらせてゐるのでも、一向差支はないのである。
 黄色い声などと、声と色彩とを結びつけてゐるのは面白い。
 声を腹から出すとか、頭のてつぺんから出すとかいふのも、それぞれ感じが出てゐて面白い。
 高い声低い声は、理窟だが、太い声、細い声、丸い声、尖つた声、などといふのは感覚的だ。
 音楽の方で、バス、バリトン、テノオル、アルト、ソプラノなどと云つてゐるが、普通の声を、この区別で呼ぶことが近頃日本でもはやつて来た。

「声」といふ言葉は、日本でも西洋でも、抽象的な意味をもち、「意志」とか「意見」とかを表はす場合がある。「神の声」とか、「民衆の声」とかはそれである。
 声は、それ自身「精神」なり「生命」なりをもつと解釈できるかどうか。少くとも、「語られる言葉」のうちで、ただ単に機械的な役割を演じてゐるのでないことはたしかである。
 同じ言葉が、澄んだ声で語られる時、弾力のある声で語られる時、錆びのある声、艶つぽい声、あどけない声で語られる時、さては、濁《だ》み声、破鐘のやうな声、かすれた声、頓狂な声、さういふ様々な声で語られる時、その印象は決して同一ではない。
 優しい声、厳かな声、熱のない声、甘つたれた声、邪慳な声、などと云ふのは、それ自身、多少相対的な意味を含めた形容で、これは、声の調子と云ふ方が、より正確な場合もあらう。特殊な心理の動き、ある感情の閃きをうつすのは、多く声の出し方による、その抑揚強弱明暗の度に外ならぬ。
 更にまた、感情の激発に伴ふ異常な声の調子を呼んで、怒声、笑声、歓声、うるみ声、おろおろ声、などと云ふが、このなかには、もう既に、声の領域から、広い意味に於ける言葉そのものの領域に足を踏み込んでゐるものもある。

 所謂「美声」は、云ふまでもなく、「語られる言葉」の魅力を増すことに役立つのであるが、前に述べたやうに、所謂美声なるものには、常に何等かの条件がついてゐる。それは、丁度服装のやうなものである。ある種の「美声」は、甲の人物によつては極度にその真価を発揮するが、乙の人物によつては、却つて不似合な声として顧みられないことすらあるのである。
 これに反し、所謂「よくない声」でも、ある人物の口から漏れる場合には、それが「よくない声」であることを忘れさせるのみか、時とすると、さういふ声なればこそ、その言葉が一層、言葉としての魅力をもつといふやうな場合があるのである。
 しかし、さういふ例は極めて稀であつて、その人物の人柄に似つかはしい「美声」は、その人物によつて「語られる言葉」を一層生彩あらしめるものである。
 所謂「美声」なるものの、どつちかと云へば感覚的魅力を主とするのに対して、専ら精神的魅力を生命とする一種の声が存在することを注意しよう。それは前に述べた例の「精神」乃至「生活」で鍛へた声である。この種の声は、必ずしも「美声」と呼ばるべきものではないが、「語られる言葉」を、最も高き意味に於いて、魅力づけるものであることを忘れてはならぬ。
 日本人の生理的弱点は、到底欧米人と所謂「美声」といふ点での感覚的魅力を争ふことはできないかもしれぬ。しかしながら、われにまた残された一つの領域がある。
 舞台の俳優について云へば、「美声」は美貌と同様、最も貴重な「道具」であるが、それと同時に最も危険な武器である。なんとなれば、ブレモン教授の説を俟つまでもなく、彼等はその「美声」を恃んで、その声に総てを委ねる弊に陥るからである。つまり、「芸」に求むべきものを、「声」に求める過ちを犯すからである。
 劇場に於いてもまた、「美声」は必ずしも「立派な声」ではない。

     五 訛り方

 日本語の発音は、そんなにむづかしくない。非常に合理的なだけに単純を極めたもので、「文字」を離れた発音だけなら、外国人でも一日で練習ができるだらう。そこへ行くと、外国語の中には、なかなか、面倒な発音があり、十年かかつても容易に卒業のできない発音がある。仏蘭西語で云へば in, un, eu, r, の如きは、外国人で完全に発音し得るものは稀であらう。
 ところが、その容易な日本語の発音さへ、完全にできぬ日本人が随分多く、その上、例の訛りがついて廻つて、往々「語られる言葉」の魅力を殺ぐのである。尤も、この訛りのために、却つて愛嬌を増す場合もないではないが、それは、決して知的な意味での言葉の魅力でなく、多少とも偶然であり、標準とするに足らぬ魅力である。
 女の人の関西訛りは、なかなか言葉としての陰翳に富み、いはば洗練された訛りであるが、さういふ訛りは、ちよつと例外である。
 誰でも自分の国の発音や訛りを気にするとは限るまいし、それからまた、同国の人にとつては、それが寧ろ、言葉としての大切な魅力になるのであらうが、さうなると話は別である。私も、嘗て東北地方を旅行して所謂「ズウズウ弁」のそれほど聞きづらいものでないことを知つたが、それは、実際、ああいふ言葉、ああいふ発音、ああいふ訛りを、東北の風土と生活の中では最もふさはしく感じ得るからであつて、東京のやうな場所で、これを聞くと、その「語られてゐること」が、東北の「土」と関係がなければないほど、いかにも不似合な、又は、唐突な感じを受けるのである。
 発音そのものは、たとへ、正しいとか、美しいとかいふ批判を受けなければならないにせよ、それ自身、「語られる言葉」の魅力を、決定的に左右するものではないのである。
 しかし、この議論は、多分に、同情的な観方を含んでゐる。今日われわれが標準語を採択した以上、最早、自分の郷土の言葉は自分の郷土だけで幅をきかすべき言葉なのである。他国のものにとつて、それは、言葉の意味だけは伝へ得ても、言葉としての魅力は、大部分失ふものと覚悟しなければならぬ。
 関西の映画館で、説明者が、関西弁を使ふと、見物がしきりに笑ふさうである。そして、それらの見物は、多く、その説明者と同じ言葉を使ふ人々なのである。これは不思議なやうで、不思議でもなんでもない。日本人はさういふ人間であり、いまはさういふ時代なのだ。そして、それ以上に、映画館は、もう、だれの国でもないのである。
 異様な発音と言葉の訛りは、第一に、「田舎」といふ感じと結びつく。これは東京に育つたものの甚だつまらぬ「感じ」であらうが、その「田舎」は、どういふ場合にでも、肩身が狭いわけではなく、「言葉」といふ厄介な市場以外では、「都会」なるものと何等その価値に於いて相違があるわけではない。寧ろ、政治家と学者と将軍の多くは、件の「田舎」弁を操る社会的成功者である。
 ただ、俳優だけには、絶対に発音の不正と、訛りの過多を許すわけに行かない。なんとなれば、彼等は、商売道具を精選しなければならず、その道具は、「総ての言葉」を正しく、美しく、はつきり、自由に出し得ることが肝腎であり、「シンブン」を故ら「スンブン」と発音するのは差支へないが、「スンブン」をどうしても「シンブン」と発音できないことは、致命的弱点となるからである。
 訛りに関連してアクセントの問題は、近頃いろいろ自分でも疑ひをもち出してゐるのである。ここでは、一つ面白い話を紹介すると、名古屋弁のアクセントは甚だ特徴のあるものであるが、私の友人で、その名古屋生れのチヤキチヤキが、仏蘭西語をやつてゐて、その仏蘭西語が、また、われわれの仏蘭西語と少し調子が変つてゐるのである。向うの方が上手なのかもしれないから、うつかりそれは間違つてゐるとも云へずにゐると、その男が、ある時、仏蘭西人の前で本を読んだのである。すると、その仏蘭西人は、果して、その変な調子に気がついたとみえて、しばらく、その男の顔を見てゐたが、やがて、にやにや笑ひながら、「君の仏蘭西語は、マルセイユ人の仏蘭西語そつくりだ」と宣告した。

     六 表情

「語られる言葉」の効果を間接に助けてゐるものは、顔面の表情と、身ぶり手つきであるが、殊に顔面の表情は、「語られる言葉」そのものと分離して考へることは、困難なほど密接な関係をもつてゐる。
 普通、眼の表情を第一に問題とするのであるが、ある人の説によると、口の表情がこれに劣らず重大な要素であると云つてゐる。これに次いで小鼻の表情が大切である。私の知つてゐる範囲では、ヴィユウ・コロンビエ座のジャック・コポオは、鼻も特別大きかつたが、その小鼻の巧みな動かし方に於いて、正に巴里の群優を抜いてゐた。例へば、小鼻をいつぱいに膨らまして、鼻の下を心持ち長くすると、それだけで、「君が今云つたことは、そりや嘘だらう」といふ意味をはつきり表はしてゐるのである。かうなると、これはもう立派な「言葉」である。
 まして、「言葉」の間接手段たる身ぶり、手つき、その他一切の科《しぐさ》は、顔面の表情と共に、ある場合にはそれのみで人間の思想感情を的確に伝へるものである。そこから、黙劇が成立するのであるが、そして、日本人は最も黙劇のへたな国民であるが、そ
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