「語られる言葉」の美
岸田國士

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)生《なま》の
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     一 書かれた言葉と語られる言葉

 われわれ日本人は、子供の時分から、文字を眼で読むといふ努力をあまりに強ひられた結果、「口から耳へ」伝へられる言葉の効果に対しては、余程鈍感になつてゐるやうである。もちろんその他にも原因はあるだらうが、書かれた言葉、即ち文章についてやかましい批評をする人も、「語られる言葉」即ち「談話」については、案外、無関心であるなども、その証拠だらうと想はれる。
 雄弁術といふものを正統的に育てて来なかつた国だから、それも無理はないのであるが、しかし、私がここで云はうとするのは、必ずしも、さういふ限られた技術の問題ではない。物を言ひはじめた子供の語る言葉は、いかに魅力に富んでゐるか、さういふ子供に乳をふくませてゐる若い母親の言葉が、いかに屡々われわれを微笑ましめるか。行軍に疲れた兵士らが、道ばたで取り交す会話のうちに、時として、いかに面白い調子を発見するか。われわれの耳の周囲には、寧ろ、月並な思想の月並な表現が充満してゐることは事実である。しかしながら、稀に、われわれの耳は、ある種の「魅力」に遭遇して、忘れ難き印象を留めるのである。この快感は、美しき自然と、傑れたる芸術のみがわれわれに与へ得る快感である。
 私は、この快感を特に名づけて「語られる言葉の美」と呼びたいのである。そして、この機会に、われわれの国語をもつてする「語られる言葉の美」を数多く発見し、新しく培養する必要を力説したいのである。
 西洋諸国の国語は、「書かれる言葉」と「語られる言葉」とを区別はしてゐるが、その差は日本のそれほど著しくない。まして、日本のやうに、所謂口語体さへも、「語られる言葉」としての生命を失つてゐるやうな、不合理な状態に置かれてはゐないのである。西洋の口語体は、即ち「語られる言葉」である証拠には、西洋人の演説を活字で読んで見るがいゝ。更に一層注意すべき事実がある。それは、彼等が、いかに長い手紙を屡々書くかといふことである。そして、その手紙がいかに生彩に富んでゐるかといふことである。彼等こそ手紙を「話すやうに書く」からである。寧ろ、彼等はそれを「話しながら書く」のである。「書きながら話す」のである。
「語られる言葉」の美は、これを「語り手」に求むべきことはむろんであるが、われわれ日本人は、前に述べた如く「語り手」として、多くはその点、甚だ幼稚である以上に、「聴き手」として、この魅力に鈍感であるばかりでなく、更に、自分に関係なく語られる言葉の中から、第三者として、この種の魅力を素早く捉へるといふ訓練に至つては、最も欠けてゐると云はねばならぬ。この事実こそ、わが国の現代劇を不振ならしめてゐる最大の原因なのである――作者の側からも、俳優の側からも、将たまた、観客の側からも。
 試みにさつきの例を挙げて見よう。こゝに一人の若い母親がゐる。子供に乳をふくませながら、かう云つてゐる。――
「さ、早く、おつぱいを飲んで、ねんねして頂戴。そいでないと、母ちやんは、……どうするか知つてて……?」
 さて、こんなつまらない独白めいた言葉から、実際、われわれが、何か魅力らしいものを感じたとしたら、どうだらう。その母親が美しい女性だからだと云ふものがあれば、私は、そればかりではないと答へる。若い母親としての優しさが、言葉の調子に表はれてゐるからだと云ふものがあれば、私はそれだけでもないと答へる。それなら、その言葉つきが極めて自然で、厭味がないからだと云ふのか。いや、そればかりでもない。声が朗らかで、歌のやうだからか。いや、いや、そればかりでもない。それならなんだ。私はかう答へるより外はない。――「さういふことがらをみんな含めた上で、なほ、その外に、その女は自分の言葉をもつてをり、そして、その言葉を自由に使つてゐるからだ。言ひ換へれば、いかにもその女に応しい言葉で、その女でなければ表せないやうなものを、最も適切な時機に、最もはつきり現はしてゐるからだ」。
「語られる言葉」の美は、かくて、立派に文学的批判を受くべきものとなるのであるが、しかも、それは、「書かれた言葉」の美以上に、デリケェトで且つ複雑な効果をもつてゐるのである。何となれば、それは一層、人間そのものの生命に近いからである。
 それにつけても、私は、日本人を不思議な国民だと思ふ。なるほど、無表情といふことも、時によると、一つの魅力ではあるが、自分の思想感情を常に歪めながら発表することを、さほど苦痛と感じないらしいのである。以心伝心とか、暗黙の裡に語るとかいふ甚だ神秘的な趣味を解する如く見えて、実は、誤解と泣寝入と気まづさとを生涯背負つて歩いてゐるのである。そして、最も困つたことは、対手を退屈させ、一座を白けさせ、人前で調子を外す妙を心得てゐることである。
 現代の日本語が、実に蕪雑を極めてゐることは、識者の等しく認めるところであるが、その識者自らが、その蕪雑さを如何にして救ひ、少しづつでも国語の品位と魅力とを恢復しなければならないかについて、十分の用意と努力とを払つてゐないやうに思はれる。尤もこの問題は、所謂識者だけに委しておくべき問題ではない。今朝も不図、読売新聞を開いて見ると、巴里にゐる中村星湖氏が、その通信の中で次のやうなことを語つてゐる。
『フランスの国民くらゐ国語を大切に取扱ふ国民はない。殊にフランス女、といふ中でも、生粋のパリの女くらゐ、フランス語の発音の綺麗なのを得意とするものはないやうです。コメディイ・フランセエズの女優達が劇場に出かける前でも、そこから帰つて来てからでも、暇さへあればフランス語の発音の練習に夢中になつてゐるといふ事ですが、これは綺麗な声を生命とする職業だからと言つてしまへばそれまでだが、さういふ特殊の職業婦人でなくても、よく話す事、よい発音をひとに聞かせる事は、フランス女、殊にパリ女の誰でもが、一般的に、もしくは歴史的に、心掛けて来た、また心掛けつゝあるところのやうです。「古きラテン文化」――それはフランス文化人、及びフランス女が最上の誇りとする、それは、こんな日常の用意から来てゐると言つてよいかと思ふ。
 日本の女の人でも花柳界などには、よほどこの声の練習があり、たしなみがあるらしいが、動機も目的も全く違ふ。普通の社会だと、日本語を綺麗にしかも明瞭、的確に話さうとする人があるかないか? 言葉を愛し、言葉を惜しみつゝ、対者によき感じ(殆ど芸術的な感じ)を与へ、また十分の理解を得させようとして、言葉の発音や調子や組立てにまで始終気をつけてゐる日本の女は、割合にすくないのではあるまいか? 紅や白粉で面上を糊塗する事は知つてゐても、腹の底から、魂の奥から発して来る言葉を磨く事を忘れては駄目だ。日本語がいつでも乱雑に流れ、標準を失ひつゝあるのは、国語の整理と統一とに始終周到の注意を払つてゐるフランス学士院のやうなものが日本にないからではなく、国民一般が、殊にいろんな関係から、言葉を重んじなければならない日本の女達が、それをあまりに出鱈目に、無自覚的に、話すといふよりは寧ろ発散しつゝあるからだらう。これは特に日本の若い教養ある女性の反省をうながしたい点だ。よき科学、よき哲学、よき文学、よき芸術、一括してよき生活はよき言葉によつて語られたものでなければならない。わが国にも、昔はそれがあつたやうです。溯つて万葉、古今の時代、降つては元禄、享保、または文化、文政の頃、その時代、それらの頃のよき文学、芸術は、わが国民のよき言葉の蒐集、結成であつたと断言されないでせうか?』

 これは、中村氏ばかりでなく、仏蘭西に少しゐたものなら、誰でも気のつくことで、それをまた、誰でも日本への通信として伝へたく感じる事柄であるが、中村氏が、仏蘭西の女はと云つてゐることは、恐らく、それが一番目立つからで、実は、仏蘭西人の悉く、つまり、男も女もと云つた方が、より適確に事実を伝へ得ると私は思ふのである。
 仏蘭西人の「語る言葉」の魅力は、その国語の性質に負ふことはもちろんであるが、それ以上に、「言葉」を愛すること、従つて、「言葉」を自分のものにしてゐることが最大の原因である。これは、知識の高下や、教養の有無に関係がなく、強ひて他にも原因を求めれば国民の性情が、明快さを尊び、婉曲を好み、当意即妙を悦び、社交性に富むといふやうな点にも関係があるであらう。要するに、彼等は、自己を表現することに巧みである。自分の気持を、多少の誇張さへ混へて、正確(?)に表示する術を心得てゐるのである。やゝ警句めいた言ひ方をすれば、彼等は、最も言葉の選択に苦しんだ時でさへ、少くともその苦しさを、最も巧みな言葉で表現し得る国民であると云ひたい。

 かういふ国民は、一面に、言葉のための言葉を弄し、談話のための談話に淫する弊に陥ることは免れ難く、その点、東洋に於いては、かの支那人に比すべき節もないではないが、私は、この「語られる言葉」の訓練に於いて、必ずしも仏蘭西人を引合に出す必要はないと思ふのである。言葉の上で最もギコチなくさへ見える独逸人にしても、無口を誇る英吉利人にしても、さては、自分勝手に喋舌つてゐるらしい露西亜人にしても、それぞれ、その国民性に応はしい「物の言ひ方」に、到底日本人などが真似られない「自由さ」を見せてゐるやうに思はれる。かうなると、彼等はわれわれに比較して、殆んど例外なく、「語られる言葉」の意識せざる芸術家だといふことができるのである。さういふ国民から、かの傑れたる数多き舞台芸術家を出したことは、むしろ、当然だと云はなければならぬ。

     二 話術以上の話術

 話術といふものがある。雄弁術を儀式的、本格的なものとすれば、話術は、着流し的であり、散歩的なものと云へよう。何れにしても、所謂「術」の「術」たる所以を発揮しなければならぬ所に、意識的な努力と効果とを計算に入れてゐる。
 この話術なるものが、「語られる言葉」の美をどれほど豊富にしてゐるか、それを今こゝで問題にする前に、ひと通り、断つておきたいことがある。それは、この種の「技術」は、単に技術としては、極めて微々たる役割をしか、われわれの生活の中に於いて演じてゐないといふことである。殊に、この技術を以て職業とするものの中には、その技術以外のものによつて、われわれを顰蹙せしめる手合があまりにも多いといふことである。
 もちろん、古今の文学的作品中、その芸術的価値の一半を、この話術に負うてゐるものもあるし、教養ある人々の高い趣味に裏づけられた話術の妙は、屡々われわれを恍惚境に導くには相違ないが、これらは、何れも、その「技術」を体得して、その運用を誤らない才能の、ひそかに許された特権であつて、かの「話上手」を鼻にかけて、得々と駄弁を弄する市井の善男善女は、正にこの「技術」の憫むべき犠牲である。
 話術とは読んで字の如く、「話をする術」である、聴手を感動させ、興がらせ、自分の言葉に耳を傾けさせる一種の技術であるが、「語られる言葉」の効果は書かれた言葉のそれ以上に複雑な要素を含んでゐるから、「書かれた物語」の話術的構成は、必ずしも「話される物語」の話術的構成に役立たず、また、「物語り風」の話術的技巧は、「対話風」の話術的技巧と一致しないのである。
 殊に、話術の「鍵」ともいふべき「聴手の心理観察」は、この技術の複雑性を一層拡大するもので、聴手が多い時、少い時、殊に一人きりの時、その聴手の種類、その状態、聴手と自分との関係、自分たちを取り巻く雰囲気、それらはみな話術の根本条件である。
 しかしながら、前にも述べた如く、この「技術」は、「技術」として遊離し、それだけが目立つやうな時、その効果の大部を失ふものであることを知らねばならぬ。
 甲の場合に成功した話術も、乙の場合には成功するとは限らない。これは、既に、話術の話術としての遊離を示すもので、さういふ話術は、「職業的話術家」に委せておけばよい。
 われわれの日常
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