生活を豊富にするものは、即ちこの種の話術ではない。意識的にもせよ、無意識的にもせよ、「語られる言葉」の魅力は、人間そのものゝ「味」と、その自然な表現によつて、最も高く発揮せられるものだと思ふ。そこから「話術以上の話術」が生れるのである。
「なんでもないことを面白く話す」のは、結局その人間の精神的な特質が、言葉の有機的作用を通して、一種の心理的快感を与へるからであり、畢竟、才気とか、熱意とか、濃やかな情感とかいふ心理的音符によつて、最も正確に、最も鮮やかに、何物かを聴手の耳に伝へ得た場合を云ふのである。
 従つて、「話術」の秘訣は、何よりも先づ、「自分を知る」といふことであり、「自分の話術」は結局、そこからでなければ生れて来ない。
 話術を看板にした「話」に真の魅力がない如く、お座なりと紋切形の口上が、いかに言葉巧みに述べられても、それは退屈以上の何物でもない証拠である。

     三 言葉と人

「語られる言葉」の選択と配列は、「書かれた言葉」即ち文章のスタイルに相当するものである。多くの場合、これが「話の調子」を決定する要素である。そして、その「話の調子」こそ、人物の「声ある姿」なのである。「文は人なり」といふ格言が半分の真理を含んでゐるとすれば、「話しをして見ると、どんな人間かわかる」といふ常識的観念は、正に九分以上の真理を語つてゐる。
 ある人物によつて「語られる言葉」が、当面の事実と心理以外、その人物の年齢、性、性格、教養、職業、環境、境遇、国、時代などを反映してゐることは、誰でも気がつくことであつて、今更説明の必要もないが、「語られる言葉」の魅力は、私の観察によると、かういふいろいろの条件が、その人物の「語る言葉」のうちに、最も色濃く、最も尖鋭に、最も調子高く、その上最も暗示的に表現されてゐる場合に、極めてよく発揮されるのではないかと思ふ。
 われわれは、常に、周囲の人物の「語る言葉」を通して、それぞれの人物の人間的魅力を感じ得ることを悦ぶと同時に、何等かの方法によつて、先づその人物を識り、然る後、その「語る言葉」の審美的効果を批判するのである。
 言葉の選択が、言葉の調子を生み、言葉の調子が、人物の「声ある姿」となるにしても、ある限られた言葉の表はれによつて、その人物の全幅が示されるものではない。「語られる言葉」の魅力は、ある人物の一面を、最も特色ある一面を強調した「意味ある響のリズム」であり、人間の魂が何ものかに触れて奏で出づる即興曲である。
 一人物の属性は、「語られる言葉」に様々な特色を与へてゐる。
 男には男の言葉があり、女には女の言葉があり、老人には老人の、青年には青年の、子供には子供の言葉がある。男の男らしい言葉は、女の女らしい言葉と共に、ある種の魅力を有ち、老人、青年、子供、それぞれの年齢に応しい言葉は、それぞれ別個の「味」を含んでゐる。
 性格気質も亦、言葉を決定する重大な条件である。性格や気質の分類は、一々これをしてゐる暇はないが、例へば、強気、弱気、神経質、多血質、偏屈、八方美人、何れも、それらしい言葉をもつてをり、何れも、興味の対象となり得るものである。
 教養の程度は、最も言葉の選択に関係し、引いて、「物の言ひ方」を左右する。教養ある男女の言葉に、一種風格ともいふべき魅力を求めることは容易であらう。而も教養の種類方面によつて、その色彩は多種多様である。これも一々例を挙げるわけに行かぬが、一般に教養のないものは、その「語る言葉」に理智的要素を欠き、精神的な感銘を受けることが少い。しかしながら、知識そのものは、必ずしも「語られる言葉」に魅力を添へるものでなく、無知が、常に「語られる言葉」を醜くはしない。「衒学的なこと」「くどさ」「固苦しさ」「熱のなさ」等は、知識を売るものゝ陥り易い弊であり、「単純さ」「淳朴さ」は、往々、無知なものの言葉に不思議な生彩を与へることがある。
 私は、特にこゝで芸術的、乃至趣味的教養の問題に触れたいのであるが、考へて見るとこれはあまり大きな問題である。たゞ、この問題が、「語られる言葉」の美を殆んど決定的に闡明する問題であることを云ふに止めよう。
「ぶつきら棒な物言ひ」が時に好感を与へ、「如才なさ」が往々反感を招くが如きは、「語られる言葉」と、人物の性格、教養などとの関係を遺憾なく語つてゐるが、こゝにまた職業の問題がある。ある職業にはその職業を反映した言葉遣ひといふものがある。軍人らしい物の言ひ方もあれば、商人らしい物の言ひ方もあり、教師らしいのもあれば、職人らしいのもあり、芸者らしいのもある。そのいづれを取つても、たゞ、それだけではなんの価値もない筈だが、ある場合には、それが、「語られる言葉」の魅力を構成する一要素となるのである。
 環境と境遇、即ちある人間の「育ち」「生ひ立ち」は「言葉」の上にも争へない特色を残す。上流、中流、下層といふ風な階級的な分け方だけでなく、いろいろ複雑な影響をそこにみることができる。
 家庭の構成分子によつても著しい違ひがある。例へば老人がゐるのとゐないのと、同胞の数、性別なども同様に関係がないと云へない。
 公卿、小間使、重役、自由労働者、下士官、居候、舅、末つ子、伯母、親友、先生の奥さん……一寸かう並べて見ても、そこに、それらしい言葉使ひがありさうに思はれる。これは、想像して見るだけでも面白いではないか。
 国と時代、これも少し問題が大きい。しかし、こゝでは、やはり一例を挙げるに止めよう。
 早く云へば、国とは、その人物の生れ、育つた国である。広くしては、国家民族と結びつき、狭くしては、一国内の地方を指すのである。
 例へば仏蘭人には、「仏蘭西人の話し方」があり、独逸人には、「独逸人の話し方」がある。国語の別はもちろん根本的な問題だが、それぞれの国語の特質を通して、所謂「語られる言葉」の表情そのものに相違が生じるのである。これは、国語の性格に、文化の伝統、国民性の特質が作用するからである。
 日本国内でも、東北、関東、関西、中国、九州、みなそれぞれの言葉をもつてゐる。そして、それは、みなそれぞれの地方を特色づける文化、風土並に気質に根ざす言葉である。
 時代については、「現代」以外にわれわれの「耳」は、その働きを延長し得ないのが残念であるが、その現代にしても、既に、幾つかの「時代」を劃してゐると云へるのである。おやぢの時代、息子の時代、孫の時代等があり、おやぢは、息子との年齢の相違による「言葉」の違ひ以外に、時代の相違による「言葉」の「旧さ」を有つてゐる。おやぢの遣ふ言葉は、単に老人の言葉ではなくして、実に前時代の言葉なのである。即ちこの種の人物は、その「語る言葉」を通して、一つの特色ある「時代」を映してゐると云へるのである。それがまた、場合によつては、意外にもわれわれの興味を惹くに足るのである。
 その他、健康な人の言葉は、病弱な人の言葉とどこかで背中合せをし、酔払ひは酔払ひの言葉しか語らず、革命家は革命家らしく物を言ふ。
 そして、最後に、当面の「事実」と、これに対するその人物の「心理」が、「語られる言葉」の内容と表現の根本を決定するのである。

     四 声のいろいろ

「語られる言葉」は、「語られる」といふ条件にともなひ、「声」を除外することはできぬ。言葉が、「如何に語られるか」は、「如何なる声」で語られるかといふ重要な点を含んでゐる。
 声には、所謂「好い声」と「わるい声」の区別以外に、様々な声のニュアンスといふものがある。
 このニュアンスは、例へば楽器の音色のやうなもので、「語られる言葉」の味に、著しい差異をつける。そして、その差異は、啻に感覚的な効果に於いてのみではなく、実に、精神的印象を左右する場合が少くないのである。
「好い声」即ち「美声」の研究については、専門家の手を煩はすとして、私は、ここで、この声のニュアンスといふ問題を、あらまし吟味して見ようと思ふ。

 人間の声を、先づ、男の声と女の声とに分けてみる。男の声は、男の声としての美しさをもち、女の声は女の声としての美しさをもつてゐる筈だから、男が女のやうな声を出すことはあまり好ましいことではあるまい。尤も、日本の芝居には、女形といふ変態的存在があり、女形としての美声といへば、舞台化された女の声についていふのであらうが、私は、未だ嘗て、女形の喉から、「美しい」声を聴いたことはない。これは、女形の芸を鑑賞する資格がないからかもしれないが、私は、なんと云はれても女形の「せりふ」だけはその声の点だけで有難いものとは思はない。少くとも、あの女の喉から絞り出される男の声、(実は男の喉から絞り出される女の声)を聞くと、無駄な努力だと思ふ。
 西洋では、女優が男の役に扮することがあるが、それは常に年少の男である。男女の声が、まだそれほどはつきり区別されない前の男の声は、中年の女優がさほど無理をせずに出し得る声である。
 次に、声を年齢によつて区別することができる。年寄の声と若いものの声――これは男女の区別ほど厳密でないらしい。年寄で声だけ若いからといつて、そんなにをかしくなく、若いものが、比較的老けた声を出しても、それほど聴きづらくない。何れも極端では困るが、半白の老婦人が、妙齢の淑女と、声の区別がつかぬなどは甚だ陽気な話で、高等学校の生徒が大学教授のやうな声であつたら、さぞかし、頼もしからう。
 私は、自分の指導してゐる青年俳優に、「老け役」の声といふものを「作る」ことを戒めてゐる。絶対に禁じてゐる訳ではないが、それより大切な「老け方」が、「言葉の調子」の中にあることを注意してゐるのである。これを私は、「言葉の皺」と冗談に呼んでゐるのであるが、人間の言葉は、年齢と共に皺が寄るが、その皺は、所謂「嗄れ声」を指すのみではない。それ以上、根本的な、言葉の中に織り込まれる感情の皺である。生活の皺である。青年の言葉には、声の皺がないばかりでなく、感情と生活の皺がない。よく云へば、滑らかであり、悪く云へば、のつぺらぼうである。声の皺は、生理的の変化を必要とする。即ち、声帯の硬化によるものであるから、青年の喉を以てこれを真似ることは無理である。ただ、感情と生活の皺は、観察力による研究の結果、ある程度まで獲得し得べきものであると私は信じてゐる。「老け役」の失敗は、多くこの着眼を誤ることに原因するのではあるまいか。
 一体、「作り声」といふものは、それ自身不自然さを意味してゐる以上、決して「自己を語る」ために有利なものではない。特殊な目的で「作り声」を必要とする場合がないでもないが、それは、一種の「物真似」であつて、低級な「芸」にすぎず、それによつて、忠実な自己表示は絶対に不可能と見なければならぬ。まして、いかなる目的にもせよ、「作り声」そのものに、純粋の魅力を求めることは、求める方が無理である。
 ただ、無意識的に、殊に、感情の激発につれて、本来の声とは幾分違つた声が出ることがある。このことはあとで述べる。
 声といふものは、先天的に、おほかたその特質を賦与されてゐるに相違ないが、一切の生理的変化が、幾分、後天的に行はれる如く、声も亦、いろいろの原因で後天性を帯びるものである。
 その著しい場合として、鍛へた声と、生《なま》の声とがある。鍛へ方にもいろいろある。洋風の声楽で鍛へたもの、義太夫や長唄で鍛へたもの、謡曲で鍛へたもの、琵琶や浪花節や詩吟、さては、演説や号令で鍛へたなんていふものもある。
 声楽で正しい鍛へ方をしたものは、一番合理的で、近代的で、繊細複雑な感情の表現に適してゐるだらう。従つて、最も純粋な意味で美しい声と云ふべきである。
 義太夫、長唄、清元などの声は、それぞれ多少の特長はあるが、何れも日本人としての伝統的な生活――殊にその感情生活の明暗をうつすに応はしい美声である。やや一面的ではあるが、洗煉もされ、多くの国境以内に開かれた耳には、十分快感を与へ得るものである。
 謡曲の声、これはなかなか合理的な鍛へ方をするものらしく、同じ日本人の封建的伝統生活
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