れはそれとして、「語られる言葉」の伴奏者たるこれらの一切の要素は、それ自身、必要以上に「目立つ」といふことも禁物である。以下、身ぶり、手つき一切を含めて「表情」と呼ぶことにする。
 日本人が無表情であるといふのは外国人の批評で、実は、日本人の表情が彼等には不可解なのであるから、そんな批評は意に介するに足らぬが、私に云はせれば、日本人の表情は、あまり上手ではない。上手ではないといふのは、心持ちが、そのまま、その通りに表情に表はれないといふことと、表はれた表情が、概してあまり美しくないといふことと、両方の意味を含んでゐる。
 心持ちをそのまま表情に表はさないのは、昔からさういふ風に教へられて来たからだと云ふかもわからない。しかし、そればかりではない。なぜなら、この日本人独特の「表情術」は、武士階級のみの専有ではないからである。それよりも、私は、日本の険悪な風土気候が、われわれの「不自然な表情」を生んだ最大原因だと思ふ。
 武士道の教へる禁慾主義的生活は、たしかに喜怒哀楽を顔に表はさない――少くとも「極度に表はさない」傾向を植ゑつけ、その結果、嬉しい時に苦い顔をし、哀しい時に微笑をさへ浮べる奇怪な風習を助長したにはしたが、それ以上に、数百年、数千年を通じて絶えずわれわれの生命を脅やかし、われわれの生活を脅やかし、われわれの愛情を脅やかし続けて来たこの「美しき郷土」は、実に、地震と、雷と、暴風と、海瀟と、噴火と、洪水と、火事と、厳寒と、酷暑と、長い雨期と、そして、それらの災害による饑饉との一手販売人である。かくの如き自然の脅威は、一方これに抵抗する精神力を養ひはするけれども、また一方人間の感情を萎縮させ、たまたま暢やかならんとする気持を乱し狂はすのである。
 民族の相貌と表情を観察した上で、その民族の住む国土が、いかなる自然の支配を受けてゐるかを研究して見るがいい。大ざつぱに云つても、北欧の自然は北欧人の相貌と表情をもち、南欧の自然は南欧人の相貌と表情をもつてゐる。そして、支那は支那人の、印度は印度人の……。
 日本の自然を美しいといふものがあれば、それは、風景のみを指して云ふのであらう。その風景は単に「ピトレスク」な美しさしかもつてゐない。遠くから眺める風景であつて、その懐に抱かれたい自然ではない。
 この議論はこのくらゐにしておいて、さて、日本人の表情は、かくの如く「言葉」の一要素として、最も不適当な条件を備へてゐるのであるが、これまた、さほど悲観するにも当らないのである。なぜなら、表情も亦、かの「声」に於ける如く、その魅力は、必ずしも「言葉」と遊離して批判さるものではなく、殊に、所謂「表情の巧さ」は、決して、「精神的美しさ」を表示する最後の方法ではないからである。
「語られる言葉」の魅力は、かくて、これまた、「声」の場合に於ける如く、最も複雑な関係に於いて、「表情」のある種の魅力と結びつくのである。

 俳優の表情は、それだけで独立した演技の一要素であるから、こゝで取り立てては述べぬが、日本の俳優は、一般に、白《せりふ》と科《しぐさ》の一致、乃至、白を云ひながら、その表象をするといふ研究が、非常に幼稚である。可なり研究が出来てゐる人でも、概して、その結果が類型に陥つてゐる。

     七「語られる言葉」の芸術

 われわれの日常生活は誠に殺風景なもので、「語られる言葉」の多くは、月並な、生彩に乏しい、たゞ単に「用事を足す」だけの言葉である。たまたま、面白い言葉を耳にはさんでも、それは、一分間とは続かないのである。これは、現代の日本のやうな国では已むを得ないことであらう。しかしながら、この「最も快き瞬間」に、少しでも度々出会ふことを望むのが、生活を愉しみ、文化を愛する人々の常である。
 この点で、幾分恵まれてゐるとさへ思はれる西洋人でも、日常生活の中だけでは満足してゐない。
 それなら、どこにそれを求めるか。「語られる言葉」の美が、最も輝やかしい魅力となつてわれわれを包む世界がたゞ一つあるのである。
 それは、いふまでもなく、劇場である。
 劇場は固より、その他の要素からも成つてゐる。しかしながら、「語られる言葉」の美だけは、劇以外に於いてこれを完全に、十分に味ふことはできない、といふ一事を、私は人類のために悲しみ、また、俳優のために誇りたく思ふのである。
 寄席の落語や講釈は、なるほど、「語られる言葉」の一芸術であり、これに心酔する人々に云はせると、これほど「面白い」ものはないのであるが、私の見るところでは、落語や講釈からわれわれが求め得るものは、特定の階級に迎合する話術以外のものではないのである。その話術は、なるほど、一つの確乎たる様式を生むまでに洗練されてはゐるが、その様式は殆ど「高座のマンネリズム」とも称すべきもので、民衆はそこに何等の新しい発見を期待することなく、たゞ漫然と聴き、漫然と笑ひ、そして、漫然と時を過してゐるのである。「語られる言葉」の美は、時に、名人と呼ばれる話術家の舌端から、最も力強い真実の響をもつて生れ出ることもあるが、その真実にさへ、われわれはもう新鮮な生命を感じることができなくなつた。何となれば、そこで語られる言葉は、われわれの言葉ではないからである。所詮、現代の寄席は旧い言葉を語る民衆と共に、いつかは滅び行く運命をもつてゐるのだらう。
 今日の民衆は、かくて、「彼等によつて語られる言葉」の魅力を、最も皮肉なことには、かの映画館の中に求めつゝあるのである。
 映画説明者は、事実、「漫談」なる現代的寄席芸術の一様式を案出したのであるが、これがどこまで発達するか、今のところ疑問である。
 最近、ラヂオで「映画物語」といふ変なものが放送されるが、私は、いつか、偶然それを聴いて、こいつは何かになると思つた。

 ラヂオ・ドラマといふ形式についても、いろいろ考へたのだが、結局、擬音といふやうな機械的な効果はそれほど問題ではなく、「語られる言葉」のあらゆる効果と、その効果による聴取者の想像力が、将来のラヂオ・ドラマを決定するのだと思つてゐる。
 この種の想像力は、ある程度まで舞台演劇の鑑賞にも必要であつて、能や歌舞伎劇の多くは、就中、その著しい例であるが、ラヂオ・ドラマは、特に、この想像力を極度に利用すべき表現形式を取らねばならぬ。
 雨が降つてゐる。――舞台でなら、本雨を降らすこともできるし、雨の音と、人物の動作や表情で、直接、これを見物に伝へることができるのであるが、ラヂオでは、やはり、人物をして、雨が降つてゐることを「語らせ」なければならぬ。さうすれば、雨の音は第二である。その語らせ方が、第一に問題になる。
 雨が降つてゐる。――雨脚が光る。庇にあたる雨の音。人が空を見上げる。硝子戸をしめる。外から帰つて来たものが、傘の水をふり払ふ。かういふ情景や、動作は、なるほど演劇の重要な一要素ではあるが、ラヂオでは全く効果がないか、或は甚だしく稀薄である。
 雨が降つてゐる。――「雨が降つてる」と「語らせる」のも一法であらうが、これでは、聴取者の想像力を奪ふことになつて面白くない。「どうしたといふんだらう、この天気は……」とでも「語らせ」れば、まだ幾分想像力を満足させることになる。或は、「駄目ぢやないか、濡れた傘をこんなところへ置いちや……」かう「語らせる」ことも有効であらう。もちろん、かうでなければならぬといふ型がある筈はないが、ラヂオ・ドラマの一要素はたしかに、「耳から眼へ」伝へられるイメエジの効果に外ならぬ。
 演劇のうちでも、古典劇に多く見るかのチラアドなるものは、この効果を十分に活かしてゐるやうに思はれる。例へば、ラシイヌの如きは、その悲劇の悉くに於いて、血腥い場面を決して舞台に現はさず、必ず、一人物をして幕間に起つた事件の名描写を行はしめてゐる。恐らく、実際の「立廻り」を見せるよりも、芸術的感銘は深いに違ひない。
 私は、元来、演劇の「眼に訴へる効果」なるものを、人物の表情以外、さほど重大なものと考へてゐないのである。まして舞台上の機械的装置は、往々、観客の想像力を殺ぎ、芸術的効果を傷ひ、いはば幻滅に近い印象を与へるものであることを屡々経験してゐる。人物の動作にしてもさうである。その動作が激しければ激しいほど、俳優は自己をマスタアすることができず、或は舞台そのものの構造と調和せず、観客に一種の焦慮を与へ、時としては面をそむけさせるに至るのである。例へば、舞台上で走つたり、倒れたりする動作などは、いかに熟練した俳優でも、デリケェトな観客を苦笑せしめずには措かないのである。
 この点、ラヂオ・ドラマは、大変助かるには違ひない。しかし、悲しいかな、聴取者の想像力には限りがある。見物の想像を許さぬ俳優の魅力ある表情姿態は、これをラヂオ・ドラマに求めることができない。それにしても、不必要に見物の想像力を疲れさすことは慎しんだ方がよろしい。あの音はなんの音だらうか。あの叫び声は誰の叫び声だらうか。眼のない聴手が、かう自問自答する努力は、やがて、神経の濫費となつて、作品全体の鑑賞を妨げ、遂には、アンテナを外せといふことになるかもしれぬ。
「耳から眼へ」伝ふべきものと、「耳から心へ」直接に愬ふべきものとを、区別吟味しなければならぬわけである。不正確な物音や、誰のともわからぬ叫び声の如きは、徒らに「耳から眼へ」の神経を疲労させるばかりで、「心に」愬へる何ものも残さぬ結果に陥る場合が多い。「見ようとしても見えぬもどかしさ」を与へてはならぬ。「おのづから見えて来る面白さ」が、ラヂオ・ドラマの一つの新しい天地であると思ふ。
 この意味で、どうせ「眼は不用」なのだから、密閉された場所とか、真暗な処で起つてゐる事件がラヂオ・ドラマ向きの場面であるなどと考へるのは、単純な考へ方であると思ふ。人間は密閉された場所や真暗な処で起つてゐる事件ほど、「眼で見たい」のである。これくらゐ「もどかしい」ものはないのである。しかも、さういふ場面は、実際の舞台で幕をおろしたまま、或は、舞台を真暗にして演じれば、それでいいのである。ほんたうなら、さういふところは小説に書く方がよろしい。
 ラヂオ・ドラマは、寧ろ、実際の舞台では現はし得ない場面を選ぶか、限られた舞台では想像の範囲を狭められるやうな情景を求めるのが自然であり、得策である。
 ラヂオ・ドラマの一形式として、私は、前に述べた「映画物語」風のものを想像してゐる。あれをあの形式で、創作にすればよい。日本の新しい戯曲の誕生が、これによつて告げ知らされるといふことにでもなれば、欧羅巴に於ける悲劇の発生にこれを結びつけることもできるではないか。
 私は嘗て巴里で、名女優ララ夫人が、たまたまそのサロンに集つた十数人の友に、ラムのシェイクスピヤ物語中、ハムレットの一齣を朗読して聴かせたことを覚えてゐる。私は少し疲れてゐたせいか、眼をつぶつて耳を澄ましてゐた。これは天下一品のラヂオ・ドラマであつた。否、ラヂオ・ドラマであるばかりではない。それまで観たいかなる名戯曲の名演出よりも、戯曲的感銘に於いて劣つてゐるものではなかつた。私はこの時、演劇の本質が、美しき言葉の美しき肉声化に在りと断言してもいいやうな気がしたのである。尤も、その後で、陶然と半眼を開いて、上気したララ夫人の顔を打ち眺めるに及んで、これはまた、声だけで満足する法はないと思つたのも事実である。
 それはさうと、ラヂオ・ドラマも、機械を通るといふ致命的な弱点を、いかに処理するか。人間の声が半人半電の声となるわけであるから、どんな美しい声でも、どんなに魅力のある「話し方」でも、電化されると、大半効果を失ふことになる。これが解決されなければラヂオ・ドラマも遂に先が見えてゐると云はねばならぬだらう。

 俳優の白《せりふ》は、いふまでもなく「語られるために書かれた言葉」の肉声化であつて、俳優は、劇作家の創造した人物に扮して、その人物が語る言葉を語るのである。劇作家は、その作品中の人物をして、最も戯曲的な言葉を語らせねばならぬ。それは、俳優
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