は不用」なのだから、密閉された場所とか、真暗な処で起つてゐる事件がラヂオ・ドラマ向きの場面であるなどと考へるのは、単純な考へ方であると思ふ。人間は密閉された場所や真暗な処で起つてゐる事件ほど、「眼で見たい」のである。これくらゐ「もどかしい」ものはないのである。しかも、さういふ場面は、実際の舞台で幕をおろしたまま、或は、舞台を真暗にして演じれば、それでいいのである。ほんたうなら、さういふところは小説に書く方がよろしい。
 ラヂオ・ドラマは、寧ろ、実際の舞台では現はし得ない場面を選ぶか、限られた舞台では想像の範囲を狭められるやうな情景を求めるのが自然であり、得策である。
 ラヂオ・ドラマの一形式として、私は、前に述べた「映画物語」風のものを想像してゐる。あれをあの形式で、創作にすればよい。日本の新しい戯曲の誕生が、これによつて告げ知らされるといふことにでもなれば、欧羅巴に於ける悲劇の発生にこれを結びつけることもできるではないか。
 私は嘗て巴里で、名女優ララ夫人が、たまたまそのサロンに集つた十数人の友に、ラムのシェイクスピヤ物語中、ハムレットの一齣を朗読して聴かせたことを覚えてゐる。私は少
前へ 次へ
全44ページ中39ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング