し疲れてゐたせいか、眼をつぶつて耳を澄ましてゐた。これは天下一品のラヂオ・ドラマであつた。否、ラヂオ・ドラマであるばかりではない。それまで観たいかなる名戯曲の名演出よりも、戯曲的感銘に於いて劣つてゐるものではなかつた。私はこの時、演劇の本質が、美しき言葉の美しき肉声化に在りと断言してもいいやうな気がしたのである。尤も、その後で、陶然と半眼を開いて、上気したララ夫人の顔を打ち眺めるに及んで、これはまた、声だけで満足する法はないと思つたのも事実である。
 それはさうと、ラヂオ・ドラマも、機械を通るといふ致命的な弱点を、いかに処理するか。人間の声が半人半電の声となるわけであるから、どんな美しい声でも、どんなに魅力のある「話し方」でも、電化されると、大半効果を失ふことになる。これが解決されなければラヂオ・ドラマも遂に先が見えてゐると云はねばならぬだらう。

 俳優の白《せりふ》は、いふまでもなく「語られるために書かれた言葉」の肉声化であつて、俳優は、劇作家の創造した人物に扮して、その人物が語る言葉を語るのである。劇作家は、その作品中の人物をして、最も戯曲的な言葉を語らせねばならぬ。それは、俳優
前へ 次へ
全44ページ中40ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング