。例へば、舞台上で走つたり、倒れたりする動作などは、いかに熟練した俳優でも、デリケェトな観客を苦笑せしめずには措かないのである。
この点、ラヂオ・ドラマは、大変助かるには違ひない。しかし、悲しいかな、聴取者の想像力には限りがある。見物の想像を許さぬ俳優の魅力ある表情姿態は、これをラヂオ・ドラマに求めることができない。それにしても、不必要に見物の想像力を疲れさすことは慎しんだ方がよろしい。あの音はなんの音だらうか。あの叫び声は誰の叫び声だらうか。眼のない聴手が、かう自問自答する努力は、やがて、神経の濫費となつて、作品全体の鑑賞を妨げ、遂には、アンテナを外せといふことになるかもしれぬ。
「耳から眼へ」伝ふべきものと、「耳から心へ」直接に愬ふべきものとを、区別吟味しなければならぬわけである。不正確な物音や、誰のともわからぬ叫び声の如きは、徒らに「耳から眼へ」の神経を疲労させるばかりで、「心に」愬へる何ものも残さぬ結果に陥る場合が多い。「見ようとしても見えぬもどかしさ」を与へてはならぬ。「おのづから見えて来る面白さ」が、ラヂオ・ドラマの一つの新しい天地であると思ふ。
この意味で、どうせ「眼
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