衆はそこに何等の新しい発見を期待することなく、たゞ漫然と聴き、漫然と笑ひ、そして、漫然と時を過してゐるのである。「語られる言葉」の美は、時に、名人と呼ばれる話術家の舌端から、最も力強い真実の響をもつて生れ出ることもあるが、その真実にさへ、われわれはもう新鮮な生命を感じることができなくなつた。何となれば、そこで語られる言葉は、われわれの言葉ではないからである。所詮、現代の寄席は旧い言葉を語る民衆と共に、いつかは滅び行く運命をもつてゐるのだらう。
 今日の民衆は、かくて、「彼等によつて語られる言葉」の魅力を、最も皮肉なことには、かの映画館の中に求めつゝあるのである。
 映画説明者は、事実、「漫談」なる現代的寄席芸術の一様式を案出したのであるが、これがどこまで発達するか、今のところ疑問である。
 最近、ラヂオで「映画物語」といふ変なものが放送されるが、私は、いつか、偶然それを聴いて、こいつは何かになると思つた。

 ラヂオ・ドラマといふ形式についても、いろいろ考へたのだが、結局、擬音といふやうな機械的な効果はそれほど問題ではなく、「語られる言葉」のあらゆる効果と、その効果による聴取者の想像力
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