である。
ただ、無意識的に、殊に、感情の激発につれて、本来の声とは幾分違つた声が出ることがある。このことはあとで述べる。
声といふものは、先天的に、おほかたその特質を賦与されてゐるに相違ないが、一切の生理的変化が、幾分、後天的に行はれる如く、声も亦、いろいろの原因で後天性を帯びるものである。
その著しい場合として、鍛へた声と、生《なま》の声とがある。鍛へ方にもいろいろある。洋風の声楽で鍛へたもの、義太夫や長唄で鍛へたもの、謡曲で鍛へたもの、琵琶や浪花節や詩吟、さては、演説や号令で鍛へたなんていふものもある。
声楽で正しい鍛へ方をしたものは、一番合理的で、近代的で、繊細複雑な感情の表現に適してゐるだらう。従つて、最も純粋な意味で美しい声と云ふべきである。
義太夫、長唄、清元などの声は、それぞれ多少の特長はあるが、何れも日本人としての伝統的な生活――殊にその感情生活の明暗をうつすに応はしい美声である。やや一面的ではあるが、洗煉もされ、多くの国境以内に開かれた耳には、十分快感を与へ得るものである。
謡曲の声、これはなかなか合理的な鍛へ方をするものらしく、同じ日本人の封建的伝統生活
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