の立場から論ずれば、徳川時代に最も獨創的見地から研究した大阪の學者では、麻田剛立を第一に推さねばならぬ。彼が豐後から大阪に出で、天文研究に盡瘁した成績は文書缺損して判然しない。しかしその惑星運行の觀測は遂にケプレル法則に到達した。ケプレルがチヨブラヘの結果を利用して、法則を編み出したとは、艱苦の點において大差がある。しかもその門弟高橋至時(純大阪市民)間重富が、寛政改暦を實行し、至時は遂に子午線弧の測定に※[#「執/れっか」、382−3]中するに至つた筋道を考ふれば、その核心は矢張り麻田の教訓に基づいたことを推斷せしむる。至時はその後方針を轉化して伊能忠敬の日本全國測量の參畫者となり、百餘年前にこの大事業を完成せしむるに至つた。その過程を吟味すれば、至時もまた非凡な天文學者であつたに違ひない。至時の子景保は父の事業を襲ぎ、天文學に精通してゐたが、また盛んに韃靼語を研究し、徳川時代の斯道の最高權威である。一世紀前に蒙古まで皇國の勢力範圍に入れんとした卓見家は、實に大阪に生れた快男兒である。しかしその名は大阪人に餘り傳へられてゐない。ほんまに燈臺下暗しでおまへんかといひ度い。
 この外河村
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