ら、姉さんは私も中毒《あた》つてもいゝから食べて見たいつて云つたさうだよ。」
私の思ひはもう父を離れて寂しい静かな姉に移つて行つた。姉の死も遠くはない。姉は長野の高等女学校へ行つてゐたが、肺を悪くして帰つて来て、今自分の寝てゐる室から二間を隔てた、父の書斎の次の間に、静かに白く横はつてゐるのである。併し、その静かな死の予想は、此の小さい心に何の不安も残さなかつた。死は、やはり不意に来て、不意に奪ひ去る処に恐怖がある。私ははつきり白い姉の死顔を見たやうな気がした。併しそこには何ら私を脅かすものがなかつた。
「兄さん、姉さん処へ行つておやりよ。僕はもういゝんだから。」
兄は其|下《しも》ぶくれの顔に、何の感情をも浮べる事なく室《へや》を出て行つた。後には只穏かな、紫つぽい暗が残つた。
「もう大丈夫だ。」
と私は独語した。そして何となく熱と痛みの去つた後に来る恍惚状態の中に、眼を閉ぢた。その世界にはもう不安も恐怖もなかつた。やがては深い眠りが襲うて来た。……
三
夜中頃、その眠りから私はけたゝましい警鐘によつて起された。戸外《そと》には夜の風が出てゐた。絶えず連続した鐘
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