の音がそれに交つて流れて、一時腹立たしい思ひで起きた自分の心を、すぐ不安に変へた。兄はもう起きてゐなかつた。咄嗟の間に火事だと云ふ事だけは解つた。街道の方を人が圧搾されたやうな声を出して行き過ぎた。
 私は急いで帯を絞め直した。そして二階へ上つた。上つてゆくと、そこには欄干にもたれて父と母を除いた家族中の者が皆黙つて火事を眺め入つてゐた。
「辰夫か。今やつと眼がさめたのかい。」と兄が私を見て云つた。「御覧、お父さんの女学校が火事になつたのだよ。」
 私は兄の指す儘にその赤く爛《たゞ》れた空の下を見た。黒い屋根と樹木との幾輪廓かを隔てたその向うに、伸びたり縮んだりする一団の火があつた。そして其焔から数知れぬ紅の粉が或る所までは真直ぐに噴き上がつてそれから横になびいてゐた。そしてその火の粉の散ずる所、かつかと爛《たゞ》れた雲の褪せていく処には、永久の空がぢつと息をひそめて拡がつてゐた。
 火の上がる処には何だか貝殻を吹き鳴らすやうな音と、ぱち/\と爆《は》ぜる音があつた。
 どうかすると火がぱつと光りを増して、その度に向うの屋根の上にゐる幾人かの人数《にんず》を明かに照らし出した。田舎から
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