喞筒《ぽんぷ》を曳いてくる鈴の音と、遠近《をちこち》に鳴り響く半鐘とが入り乱れて、誰の心にも、悲愴な感じを漲《みなぎ》らした。併し各人は其音を聞いたとは思はなかつた。そして只音なく燃える眼前の赤いものを手を束《つか》ねて見てゐると云ふだけの気がした。
私には激しい胴ぶるひが起つて来た。併しそれは恐怖ではないらしかつた。その中には異常なものを見る快感が妙な混合をなして入つてゐた。
しばらくして私はやつと、只見てゐる状態から思考を動かしうる状態に帰つた。するとすぐ頭に浮んだのは女学校の中央にある六角の時計台であつた。それで訊ねた。
「兄さん。もう六角塔は焼けて了つたのかい。」
「どうだか解らないが、燃えたかも知れないよ。」と兄が答へた。
今、私の心の中にはつきりとその六角塔が浮んだ。そしてそれが燃えて無くなるとはどうしても思へなかつた。あの上田の町を見下してゐる白堊の六角塔。それはこの学校を何よりも美しく見せ、此町のあらゆる家並《やな》みを統《す》べてゐる中心であつた。そして或意味でそこの校長である父の誇りでもあり、そこへ通ふ生徒の憧憬の的でもあつた。自分の幼ない心には、学校のすべて
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