が父の所有物であるやうに確信してゐた。そして今其所有物である校舎、殊にその六角塔が焼け失せるとはどうして思ひ得よう。自分は父を思つた。そして父がまだ腹痛に悩んでゐてこの光景をすら見《み》ずにゐるのではないかと思つた。
「お父さんはどうしたの。」私はきいた。
「お父さんはさつき急いでお出掛けなすつたよ。」と今度は傍にゐた叔母が何の雑作もなく答へた。
自分は黙つて再び火に見入つた。そこには何物か崩れて再び火光に凄惨を増した。「よく燃える!」とどこか近処の屋根でいふ声が聞えた。「ほんとによく燃える!」
いつの間にか母が上つて来て、私の小さい肩に手を置いた。さうして強ひて沈《お》ち着けた声音《こわね》で、
「さあ、風邪を引くからもうお寝。」と云つた。
私は黙つて母の顔を見た。焔に薄紅く照らし出された其顔には、有り有りと抑へ切れぬ動揺が映つてゐた。母も、子と同じく、この時暗を衝いて心痛と危惧とに駆られ乍ら、火団《くわだん》を目がけて走つてゆく父の姿を思ひ浮べてゐるのであつた。
四
その明くる朝、私が起きた時父はまだ帰つてゐなかつた。私は心痛で蒼ざめてゐる母の顔を眺めて、無言
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