きるなら一緒に生かして下さい。いやお父さんは死んでも私は生かして下さい。さうぢやない。私は死んでもお父さんを生かして下さい。……
かう祈り続けてゐる中《うち》に、私は何だか言葉の理路を失つて了ひ、幾度か文句を間違へたり、転倒したりして、はつと中止した。そして其次の瞬間には自分の祈りの間違つた[#「間違つた」は底本では「間違った」]処を神様が聞き入れて、父ばかりが死んで自分が生残るか、自分だけが死んで父が生き伸びはしないかと思ひ到つた。もし父ばかり死んだら自分はどうなるだらう。あの広い薄あばたのある顔、沈んだ厳かな顔色、時とするとひどく柔和な姿にかへる眼。それらが今自分の周囲から急に消えたらどうなるだらう。自分は毎朝玄関へ出て「行つていらつしやい。」を云ふ必要がなくなる。お昼には紫の風呂敷に包んだ弁当を学校へ届けに行く必要もなくなる。そして小姓町《こしやうまち》の懸山《かけやま》さんまで碁のお使ひにゆく必要もなくなる。そして、……そして、……そして。それから先はわからない。私は自分の推理がそんなつまらない事にしか及ばぬのを腹立たしく思つた。そんな事の外に、父が死んだらきつと何か悲しい大
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