精一杯の政策が潜んでゐるのを気附きもしなかつたのである。
「辰夫と俺とは昨夕《ゆうべ》の篠原の鰻に中毒《あた》つたらしい。薬を飲まして寝かしてやれ。俺も寝る。」と父が答へた。
「まあ、鰻に中毒《あた》つたのですつて、あなたが独りでなんぞおいでなさる罰ですよ。辰夫。もうおまへもお父さんと二人きりで行くのはおよしよ。」
かう暖かい叱責を父子《おやこ》に加へ乍ら、母は私を連れて行つて奥の間に寝かした。太陽がまだ明るく障子をかすめてゐた。戸外《そと》には明るくて騒がしい晩《おそ》い午後が在《あ》つた。それは子供の嬉戯《きぎ》に耽る最も深い時間であつた。
私は座敷の中に一人残された。私は幾度か寝床に埋めた首をもたげて、戸外に照つてゐる日を思ひ、それと暗く陰つた座敷の奥とを見比べた。母が雨戸を二三枚引いたので、そこには昼乍らうすら寒い幽暗《いうあん》があつた。暗い襖、煤《すゝ》びた柱、黝《くす》んだ壁、それらの境界もはつきりしない処に、何だかぼんやりした大きな者が、眼を瞑つて待つてゐる。……
私はふと此儘死ぬのではないかと思つた。向うの書斎に寝てゐる父と一緒に、この明るい世界から永久に離れて
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