抜いて了ふのだ。それでこれは匿《かく》しても迚《とて》も駄目だと咄嗟の間に思ひ決めて、そつと答へた。
「えゝ少し……。」
「さうか。おまへも矢張り痛むかい。実は俺も痛いのだよ。それで帰つて来たのだ。」と父は云つた。
「昨日おまへと篠原《しのはら》へ行つたらう。あの鰻がきつといけなかつたのだ。」
かう云ひ乍ら父は、叱責を予期してゐた私の手を引いて家の中へは入つて行つた。私は腹痛の原因に就いては何も考へてゐなかつた。考へてゐるにしても飽く迄自分一人の責任として思ひ悩んでゐたのみである。併《しか》し今はそれが父の言葉ですつかり解つた。そしてそれが単に自分一人の問題ぢやなくて、すべての自分の信頼の的である父が、同じ悩みを頒《わか》つてゐるのだと思ふと、急に安心したやうな横着な気が萌《きざ》して来た。それで出来るだけ自分の腹痛を誇張するのが今の場合一番得策なのだと、小さい心の中《うち》で一生懸命に思ひついた。そして出て来た母を見ると一種の努力をして、急にその手に縋《すが》りつき、泣き声で腹痛を訴へ始めた。
「まあ此子はどうしたと云ふのだえ。」と母は云つた。母はこの無邪気の涙の陰に、幼ない乍らも
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